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■第21回「渇望」

  • 2015年07月06日(月) 18時01分
【前回までのあらすじ】
容貌魁偉の調教師・徳田伊次郎、32歳。亡き父の跡を継ぎ、南関東で6馬房の厩舎を構えている。厩舎は三流で、従業員は無気力。伊次郎は厩舎改革にとりかかり、その1番手として牝馬のシェリーラブが出走。軽快に逃げ切り、厩舎初勝利を挙げた。次は牡馬のトクマルで、単機能の「逃げ作戦」をつづける。



 たっぷり1時間以上かけて曳き運動をし、ウォーミングアップをする。騎手を背に馬場入りすると、普通キャンターで半周ほどしたらすぐ加速し、5ハロンからビシッと追い切る。その後、担当厩務員がまた1時間ほどかけて曳き運動を行い、クールダウンする。

 ……というアメリカ式の調教法を、伊次郎はとり入れるようになっていた。普通キャンターでじっくり乗り、長めから追い切る日本の伝統的なやり方とはまったく異なっている。

 基本的な考え方は「馬にストレスのかかる時間を極力短くする」ということ。馬が、人を背に乗せて走ることに飽きず、いつもフレッシュな気持ちで走れることを最優先事項としている。

 これはまた、スイッチがオンになったときとオフになったときの違いを明確にし、性格にも走りにもメリハリをつけることにもつながる。

 単機能の「逃げ」にこだわるなら、スピード競馬の本場・アメリカのやり方を真似ればいい――伊次郎はそう考えたのだ。

「おう、トク、どうしたんだ?」と、クールダウンのためトクマルを曳いていた宇野が、眉をハの字に下げた。曳き運動をしているときに何か気になるものでもあったのか、トクマルが立ち止まってしまったのだ。

 曳き手綱を握る手をグンと下げ、前に進むよう促しながらトクマルに話してかけている宇野を見て、伊次郎は、この調教法に思わぬ副産物があったことに気がついた。

 おおよそ馬に対する愛情など見せたことのなかった宇野が、いつの間にかトクマルのことを「トク」と呼び、しょっちゅう話しかけるようになっていたのだ。

 長時間の曳き運動で一緒に歩いているうちに、自然と宇野が声をかけるようになり、トクマルもなんらかの形で応え、人馬の間に新たなつながりができたのだろう。

 もうひとつのアメリカ流――これもストレスのかかる時間を極力短くすることのひとつなのだが――は、馬を洗う時間を短くすることだ。

 アメリカの厩舎には洗い場がないので、ひとりが口を持ち、もうひとりがホースで水をかけながらサッと洗ってしまう。水を切るときは靴べらのような道具を使い、その作業も手早い。が、日本で一般的に使われている、T字型の水切りのほうがむしろ効率よく乾かせる。アメリカではコスト上の理由からプラスチックのへらを使っているのだろう。とにかく、洗い場につなぎっぱなしにしておく時間を、これまでの半分にすることを目標として設定した。

 宇野が、洗い場でトクマルの顔をタオルで拭きながら言った。

「先生、おれ、これでもし負けたとしても仕方がねえやって、今初めて思えたよ」
「そうか」と伊次郎。

「よその厩舎のスタッフは、前からこういう気持ちでやっていんただろうから、おれらが勝てるわけがなかったんだ」
「これからも勝てるとは限らんぞ」
「……だから言っただろう。それでもいいって、やっと思えるようになったって」

 宇野はそう言ってトクマルを洗い場から出し、伊次郎の腕時計を顎で指し示した。

 ――これまでの半分っていう制限時間、パスしただろう?

 という意味だ。

 基本的にはチャランポランなヤツだが、戦う気になってファイティングポーズをとると、それなりに迫力がある。

 ちょっと強い稽古をやるとすぐ歩様がゴトゴトになったトクマルも、別の馬のように力強く歩いている。

 担当馬を洗い場につないだセンさんは、1頭目を扱っていたときとは違うシャツを着ている。汗をかいて着替えなければならないほど激しく動いている、ということだ。

 ゆり子が鼻歌を歌いながらバケツをふたつ運んでいる。ついこの間まで、ひとつ持っただけでヨタヨタしていたのに、別の人間のような動きだ。

 ――これはやはり、勝利の力か。

 実は伊次郎は、勝てないからこそ、勝利への渇望が強まると思っていたのだが、そうではなかった。勝つと、また勝ちたくなる。その「また勝ちたい」という惹きの強さは、「いつか勝ちたい」のそれとは比較にならない――ということを、勝って初めて実感した。

 明後日のレースでトクマルに騎乗する藤村は、同じレースに出る2頭の騎乗依頼を断って、トクマルを選んだ。

 騎乗依頼が重なることさえ珍しい彼が、一度に2頭の騎乗依頼を断ったのは、むろんこれが初めてのことだ。

「乗りたい馬が、トクマルだからです」

 藤村が新聞記者にそうコメントしたと聞いて、あのチキンハートがどんな顔でそう言ったのだろう、と驚いた。

 夜、みなが帰ったあと、厩舎の見回りをした。そのときだった。

 ――誰だ?

 馬房の前に人が立っている。

 宇野だった。

 トクマルが、厩栓棒の代わりに使っているシートに胸前をガシッと預け、首を突き出した。宇野が太い流星を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。以前なら「グー」と鳴いたところだが、この1、2カ月で、甘えるような仕草をしなくなった。

「お前が蹴った、川上厩舎のディープ産駒を覚えているか。そのうちあいつと重賞で叩き合えるところまで強くしてやる」

 宇野の言葉を聞きながら、伊次郎はそっと厩舎をあとにした。

(つづく)



【登場人物】

■徳田伊次郎(とくだ いじろう)
地方競馬・南関東の調教師。顔は怖いが、気は優しい。小さいころから上手く笑うことができない。身長175センチ、体重80キロ、胸囲120センチ。近代競馬の黎明期に活躍した「ヘン徳」こと徳田伊三郎・元騎手の末裔。

■若村ゆり子(わかむら ゆりこ)
徳田厩舎の若手厩務員。元ヤンキー。鳴き声から「ムーちゃん」と呼んでいるシェリーラブを担当。

■宇野大悟(うの だいご)
徳田厩舎のぐうたら厩務員。30代前半。

■宇野美香(うの みか)
宇野の妻。徳田厩舎の新スタッフに。

■仙石直人(せんごく なおと)
徳田厩舎ののんびり厩務員。56歳。ニックネームはセンさん。南部弁で話す。

■藤村豊(ふじむら ゆたか)
徳田厩舎の主戦騎手。顔と腕はいいが、チキンハートで病的に几帳面。

作家。1964年札幌生まれ。ノンフィクションや小説、エッセイなどを、Number、週刊ギャロップ、優駿ほかに寄稿。好きなアスリートは武豊と小林誠司。馬券は単複と馬連がほとんど。趣味は読書と読売巨人軍の応援。ワンフィンガーのビールで卒倒する下戸。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』など多数。『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で2011年度JRA賞馬事文化賞、小説「下総御料牧場の春」で第26回さきがけ文学賞選奨を受賞。最新刊はテレビドラマ原作小説『絆〜走れ奇跡の子馬』。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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