▲ここに明和牧場ゆかりの馬たちが眠っている
(つづき)
弥生賞の中山競馬場に12万3000人
1972年に大井競馬場でデビューしたハイセイコーは、重賞の青雲賞を含めて6戦6勝という成績を引っ提げて、中央競馬に鳴り物入りで移籍した。所属は東京競馬場の鈴木勝太郎厩舎。中央初戦は弥生賞(1973年)だったが、ハイセイコー見たさに中山競馬場に詰めかけたファンはおよそ12万3000人。あまりの人の多さにたまりかねたファンが、コースとの仕切の金網を乗り越え、コースに入ってしまうというハプニングが起きたほどだ。
ハイセイコーは、中央の主戦騎手となった増沢末夫さんを背に弥生賞、スプリングSと勝ち進み、皐月賞では重馬場をもろともせずに先頭でゴールイン。地方出身馬初の皐月賞馬となった。これで大井時代と併せて9連勝と連勝を伸ばした。皐月賞を勝ったことで、ハイセイコーの人気は爆発的に広がり、日本全国その名をしらない者はいないくらいのブームとなった。
皐月賞の後にNHK杯を勝ち、圧倒的な1番人気で迎えた日本ダービーでは、タケホープ、イチフジイサミに交わされて3着と敗れ、初めて挫折を経験する。距離の壁、連戦の疲れなど…敗因はいろいろ考えられたが、積極的なレースをして3着に踏みとどまったことを考えると、強い内容だったという見方もできる。ただあのハイセイコーが負けたという衝撃的な事実に、日本中が落胆したであろうことは想像に難くない。
「肝心なところで負けましたからね、ハイセイコーも。それがまた良かったのでしょうね」と明和牧場の浅川明彦さんは言う。連戦連勝負け知らずのハイセイコーも悪くはないが、怪物という異名がありながらも、ウイークポイントを持つヒーローだからこそ、ファンは自身と重ね合わせることができ、ハイセイコーは人々の心をさらに鷲掴みにしていったのだろう。
その後も勝利寸前でハナ差交わされた菊花賞、翌年(1974年)のAJCC、春の天皇賞と長い距離のレースでは、ライバルのタケホープに屈している。しかし、中距離でのハイセイコーは滅法強く、1800mの中山記念では、2着のトーヨーアサヒ、3着のタケホープらに大差をつけての圧勝劇を演じた。
ダービーで敗れて以来、宿敵となったタケホープとの最後の戦いは、ハイセイコーの引退レースでもある有馬記念(1974年)。逃げるタニノチカラの前に5馬身差の2着に敗れたハイセイコーだが、タケホープ(3着)にはクビ差先着して、両者の最後の戦いには勝利している。
通算成績22戦13勝で、大井時代の青雲賞、中央では弥生賞、スプリングS、皐月賞、NHK杯、中山記念、宝塚記念、高松宮杯と8つの重賞を制している。
引退式は1975年1月6日に東京競馬場で行われ、場内に流れたのが『さらばハイセイコー』だった。主戦騎手の増沢末夫さん自らが歌ったこの楽曲は、ラジオのヒットチャートで1位を記録するなど大ヒットとなり、ハイセイコー人気は歌謡界をも席捲したのだった。
種牡馬としても成功
競走馬生活にピリオドを打ったハイセイコーは、明和牧場で種牡馬入りした。ハイセイコーを間近で見ようと、明和牧場には連日ファンが殺到した。
「観光バスや車が毎日何十台も来ていました。駐車場が一杯の時には、家の庭先を貸したこともあるくらいです。それこそ夏休みになると、バスや車以外にもバイクや自転車、それにカニ族(横長の大型リュックを背負った旅行者。1960〜70年代に多かった)の人たちもやって来て、すごい賑わいでした。
売店もあって、確かTシャツやハイセイコーの毛で作ったお守りなどが売られていたんじゃなかったかな。芸能人もよく撮影に来ていましたよ。もちろん主戦騎手だった増沢さんも来ていました。
『ハイセイコーはこちらです』とか書いてある看板の前で、観光客に写真を撮ってくださいと頼まれて、よくシャッターを押していましたね。新冠町の明和という田舎に、日本全国からたくさんの人が訪れたわけですからね。まだ子供だった僕には、お祭りに見えて嬉しかったのを覚えています」 と、ハイセイコーが種牡馬になった頃の明和牧場の様子を教えてくれたのは、当時実家が明和牧場のすぐ目の前にあり、のちに明和牧場に勤務経験があるYさんだ。
「明和牧場で働き出してからは、黒くて大きな馬が放牧地で草を食べているなぐらいの印象しかなかったですけどね。ハイセイコーの担当者は飛び乗りができなかったので、乗り運動をする時には、ラチまで鞍を付けたハイセイコーを連れていって、ラチから跨っていたのを覚えています。うるさい馬だったと聞いていましたけど、ラチから跨る時はわりと大人しくしていたと記憶しています。ずっと担当していた人だったし、気心が知れていたから大人しくしていたのかなと思いますね」(Yさん)
ハイセイコーは、種牡馬としても成功した。墓誌には競走成績とともに、主な産駒名が並んでいる。
▲ハイセイコーのお墓
▲墓誌には主な勝鞍と産駒が刻まれている
父の果たせなかった夢を叶えて日本ダービー(1979年)と春の天皇賞(1981年)に優勝したカツラノハイセイコ。500キロ超えの大柄な父とは対照的に440〜450キロ台と小柄な同馬は、熱発明けで必ずしも万全な状態ではなかった皐月賞(1979年)でビンゴガルーの2着となり、続く日本ダービーではリンドプルバンの猛追を退け、ハナ差で勝利を収めるなど、気性の強さと根性が光る馬だった。
サンドピアリスは、20頭立ての殿人気で1989年のエリザベス女王杯を制した。同馬がトップでゴールする瞬間に「サンドピアリスに間違いない」と杉本清さんが実況したほど、その勝利は驚きに満ちたものだった。
翌1990年にはハクタイセイが親子2代で皐月賞に優勝し、ケリーバックが桜花賞で2着、オークスで3着になっている。他にはシンザン記念(1985年)、札幌記念、ウインターS(ともに1986年)に勝つなど、芝ダート問わず活躍したライフタテヤマや、570キロ前後の巨体を持ち、京阪杯(1987年)を制したマルカセイコウ、シンザン記念(1987年)に勝ったヤマニンアーデンら中央での活躍馬。1984年の羽田盃、東京ダービーを制覇し、中央移籍後に札幌記念(1985年)で2着になったキングハイセイコーや、1990年に羽田盃、東京ダービーに優勝したアウトランセイコーという地方の名馬の名も刻まれている。
「大したものですよね、これだけ産駒を出せば種馬としては成功ですよ」 ハイセイコーの墓誌の前で、浅川さんはつぶやいた。輸入種牡馬が全盛で、内国産種牡馬はまだ劣勢の時代だった。それだけにダービー馬をはじめ、これだけの活躍馬を輩出したハイセイコーは、種牡馬としても偉大だったと言っても過言ではない。
主戦騎手・増沢末夫さんとの絆
浅川さんが東京でのサラリーマン生活に見切りをつけて、明和牧場に勤め始めた1994年には、ハイセイコーは種牡馬として晩年に差しかかっていた。
「僕が来て2年くらいは、種付けをしていました。すごかったですよ、うるさくてね、牝馬見たら突進していくような馬で。チャイナロックの産駒はヤンチャですし、長生きするみたいですね。種牡馬引退後は、割と大人しくはなってはいました。たそがれてきちゃうというかね(笑)。でもやっぱり、他の馬が近くを通るとブヒブヒ鳴いていました。それにあれだけ人に見られてきましたから、人慣れしちゃうのでしょうね。人が来ても動じないですし、相手にしていませんでした(笑)」 種牡馬を引退して功労馬として余生を送っていた2000年5月4日、放牧地で倒れているハイセイコーが発見され、獣医によって死亡が確認された。
「増沢先生(増沢末夫さん)が北海道に来ていて、たまたま近隣の牧場にいたんです。連絡を取ったらすぐに先生が駆けつけてきました。(ハイセイコーが)亡くなった日に、先生が北海道にいたわけですから、ハイセイコーに呼ばれたのかもしれないですね」 空前のハイセイコーブームの中、苦楽をともにしてきた人馬の不思議な絆を感じるエピソードだ。
「ファンの方というのは、ありがたいものですね。亡くなってからも、毎年必ず来る方もいますし、命日はたくさんのお花でお墓が埋まってしまうくらいです。『大井のハイセイコー』といまだにおっしゃる方もいます。その方は大井時代からのファンで、中央入りした時はガッカリしたみたいですね」 調教師を引退した増沢末夫さんは毎年のように明和牧場を訪れ、ハイセイコーに勇気づけられたり、影響を受けた熱心なファンは毎年墓参に足を運ぶ。怪物ハイセイコーは、死してなお人々の心に生き続けている。(つづく)
(取材・文・写真:佐々木祥恵)
※明和牧場のお墓参りについては最寄の競走馬のふるさと案内所にお問い合わせください。
新冠郡新冠町明和138-10
年間訪問可能ですが、事前連絡を入れてください。
墓参 夏9:00〜15:00 冬10:00〜14:00
競走馬のふるさと案内所 明和牧場の頁
http://uma-furusato.com/i_search/detail_farm/_id_1127競走馬のふるさと案内所
http://uma-furusato.com/