7月25日から27日まで、福島県の海沿いにひらけた相馬市と南相馬市を舞台に、世界最大級の馬の祭「相馬野馬追」が行われた。
出場する馬の8割、いや、9割以上が元競走馬と言われており、今年も、千年以上の歴史を持つ伝統の祭で活躍する姿を見ることができた。
震災があった2011年は約80騎の騎馬武者による縮小開催だったが、12年は約400騎、13年は約430騎、そして14年と今年は約450騎が甲冑行列に参加した。
ここ相双地区は、震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の被災地で、約450騎のうち130騎ほどを占める小高郷と標葉郷の騎馬武者たちは、自宅が原発から20キロ圏内の旧警戒区域にあるため、避難先からの出陣となった。
私が毎年行動をともにしている小高郷の騎馬武者・蒔田保夫さんもそのひとりだ。
今年は栃木の乗馬クラブから馬を借りて、甲冑行列と神旗争奪戦に参加した。騎乗したのは、プレシャスベイブ(牝9歳、父グランデラ)という元競走馬だった。
馬が南相馬市に到着したのが土曜日の朝。それまでは、「どんな馬かわかっているのは、脚が4本ついているということだけ」(蒔田さん)という状態だった。であるから、プレシャスベイブにとって、野馬追に参加するのはもちろん初めて、ということになる。
26日、日曜日の朝。出陣の準備をする蒔田保夫さんと、手伝う武田昌英さん(手前)。左奥にいるのがプレシャスベイブ。
今年も、馬の扱いに慣れた武田昌英さんに手伝ってもらいながら、馬から見えるところで甲冑を着た。こうしないで、ほかのところで着替えていきなり現れると、馬が驚いてパニックになることもあるからだ。
厩舎内に旗指物やほかの大きな布をぶら下げ、扇風機でそれらをあおり、旗指物がバタバタすることになれさせる。また、近くで何度も法螺貝を吹いて、この音がしても大丈夫だということを教える……といった野馬追対策も万全だ。
南相馬市の街中を雲雀ヶ原祭場地目指して行軍する蒔田さん。騎乗馬はプレシャスベイブ。
26日午前10時ごろ、新田川に架かる小川橋から小高郷(南相馬市小高区)の行列が始まった。目指すは、騎馬武者たちにとっての聖地とも言える雲雀ヶ原祭場地。
御先乗の蒔田さんは、当初3番手を進む予定だったが、急きょ変更になり先頭を行くことになった。ちょっと寂しがり屋というプレシャスベイブは、ハナに立つと不安なのか、落ち着きがなくなって横歩きしたりと、蒔田さんを困らせていた。
私は、蒔田さんや、同じ小高郷から出陣し、小学2年生にして早くも5度目の野馬追という武田優心君らの写真を撮ってから、武田昌英さんらとともにクルマで雲雀ヶ原祭場地へと移動した。
雲雀ヶ原祭場地の内馬場に行くと、小高郷より先に出発した中ノ郷(南相馬市原町区)の行列がやってきた。そのなかに、よく知った人の姿があった。鳥取の大山ヒルズでキッチンマネージャーと、若手スタッフの乗馬の指南役をつとめる佐藤弘典さんだ。佐藤さんは、一昨年と昨年につづき今年も参加するつもりだったのだが、高校2年生の長男・瑠満成(るみな)さんが「自分が乗りたい」と言ったので、サポートに回ることにした。瑠満成さんは小さいころ行列に参加したことはあるが、自分で馬に乗れるようになってからは初めてなので、これが初陣のようなものだという。
雲雀ヶ原祭場地に入った、中ノ郷の佐藤瑠満成さん。騎乗馬はタマモグレアー。曳き手綱を持つのが父の佐藤弘典さん。
瑠満成さんが乗るタマモグレアー(セン11歳、父ジェニュイン)は、2011年の京都ハイジャンプを勝ち、10年の中山大障害で2着になるなど活躍した馬で、現在、南相馬市で繋養されている。面白いことに、その中山大障害を勝ったバシケーンも、同じ相双地区の相馬中村神社で余生を過ごしている。
正午、1周1000メートルのダートコースで呼び物の甲冑競馬が始まった。
その第3レースで、内馬場から撮影していた私は、たまたまものすごく迫力のある写真を撮ることができた。それが、下に掲載する1枚だ。
これを撮った一眼レフを買ったのは2012年、トルコで行われたアジア競馬会議の直前で、その後は野馬追のときに引っ張り出すだけだったので年に1度しか使っていなかった。ところが、今年になってから、セレクトセール、アロースタッド、門別競馬場、ホーストラスト北海道、高野山……と急に何度も使うようになった。
――やっぱりいいカメラを使うと、ちゃんとした写真が撮れるもんだなあ。
と中ノ郷の陣屋の前を通りがかると、佐藤さんが声をかけてくれた。
「今の競馬を勝ったの、ハギノコメントですよ」
「え、2頭併せる格好になっていたやつですか?」
「そうです」
「どっちがそうか、わかりますか」と私は、カメラのディスプレイにその2頭併せの写真を表示させた。
「白地に丸一の旗指物の騎馬武者だから、外がそうです」と佐藤さん。
右(外)が、甲冑競馬第3レースを制したハギノコメント。
佐藤さんのおかげで、こうして元競走馬の話題をネタにすることができた。
これだけ元競走馬が出ていても、競走馬時代の名はどこにも記されていないので、人に訊くしかない。競馬ファンとしての勝手な希望を言わせてもらうと、登録時に元競走馬なら馬名も申請してもらい、一覧表を用意してくれたら、それだけで野馬追観戦ツアーに参加したいと言い出すファンは、ものすごい数になると思う。
最終日の3日目、相馬小高神社で、古来からの形を残すただひとつの神事である野馬懸(のまかけ)が行われた。
これは、騎馬武者たちが参道で裸馬を追い込み、上の広場で御小人(おこびと)と呼ばれる者たちが暴れる馬を素手でつかまえ、神前に奉納する、というもの。
ここで追われた3頭もまた、元競走馬だった。
最初に追われ、奉納された白馬がワンダーバンザイ(セン16歳、父ブラックタイアフェアー)で、次に追われた鹿毛馬がリルバイリル(セン7歳、父ロックオブジブラルタル)、そして、最後に追われた、大きな流星のある栗毛馬が、大井で走っていたグランドゥーカ(セン3歳、父フォーティナイナーズサン)である。
野馬懸で相馬小高神社の参道を追われるワンダーバンザイ。
今年も大勢の観客が集まり、目玉の甲冑競馬と神旗争奪戦が行われた26日には、雲雀ヶ原祭場地に過去最多の約5万2000人が詰めかけた。また、その日、沿道で甲冑行列を見た人は、昨年より約4000人多い約6万3000人にもなった。
実は今年、小高神社や雲雀ヶ原祭場地で、普段、関東や関西の競馬場やトレセンで顔を合わせているテレビの制作会社のスタッフや、馬事文化財団事務局長の阿部憲二さんらにバッタリ会って、驚いたと同時に、とても不思議な気分になった。
私は蒔田さんの借り上げ住宅に泊めてもらったのだが、制作会社のスタッフは近くに宿がとれず、仙台駅前のホテルから毎朝2時間かけて通っていた。阿部さんは、福島から1時間半ほどかけて山を越えて通っていたのだから、大変だ。
野馬追が終わると空室が出るわけだから、これ以上ホテルを増やすわけにはいかないだろう。ならば、この時期だけ、市や県の施設を簡易宿泊所のようにしてもらうか、あるいは、短期のホームステイのように、地元の家に滞在できるようなツアーを組んでもらうことはできないだろうか。
そうしてくれないと、私は来年以降もまた蒔田さんに甘えることになってしまう。
最後に、毎年会うのを楽しみにしている小さな騎馬武者・武田優心君の写真をご覧いただきたい。
これが5度目の出陣となった小学2年の武田優心君。会うたび大きくなって、頼もしい。
来年、優心君はどんな勇ましい姿を見せてくれるだろうか。
常磐道が全線開通して、東京からの時間距離が実質的には3分の2くらい、感覚的には半分ぐらいに近くなった。
帰りに、南相馬から1時間ぐらいのいわき湯本温泉で日帰り入浴して疲れをとる、という極楽コースもある。私は忙しいふりをしたいタイプなので黙っていようかと思ったが、実はそれを600円で楽しんできた。
温泉付きのひとり野馬追ドライブ、オススメである。