▲アングロアラブの“コロスケ”とオーナーの村石由美恵さん
今年30歳、その瞳にはしっかりと力が宿っている
コロスケという名のアングロアラブとその馬のオーナー村石由美恵さんに最初に出会ったのは、昨年の12月6日。モナクカバキチの取材で、山梨県の清里高原にある小須田牧場を訪れた時のことだった。
→記事はこちら 何がきっかけで村石さんと話を始めたのかは忘れてしまったが、もう1頭の愛馬を4月に亡くしたエピソードが会話の中に登場した。村石さんがマルと呼ぶその馬の現役時代の名を尋ねると「タイビスマルク」という答えが返ってきた。タイビスマルクのお母さんは、ダイナカールが勝ったオークス(1983年)で2着になったタイアオバだ。その息子のタイビスマルクは、派手な活躍こそなかったが、いくつかの勝ち星を挙げていると記憶していた。
マルと村石さんの出会いは、当時コロスケを預けていた長野県の牧場だった。その牧場に一台の馬運車が到着して、1頭のサラブレッドが降りてきた。
「その時の姿がとても綺麗だったんですよ」、これが村石さんとマルの最初の出会いだった。
「本当に良い子でね」とマルの思い出を語る村石さんの目は涙で潤んでいた。その村石さんに「29歳のおじいちゃん」コロスケを紹介してもらった。馬繋場に立つコロスケは、降り出した雪を見つめていた。29歳とは思えないほど、瞳には力が宿っていた。村石さんにマルやコロスケの話をじっくり聞きたかったが、この日はあいにく時間がなかった。改めて取材に伺うと約束をして、小雪舞い散る12月の清里を後にした。
▲降り続く雪を見つめるコロスケ(2014年12月6日撮影)
取材の約束をしてから数か月が過ぎ、再び小須田牧場に足を運んだのは8月21日。昨年会った時にはしっかりと歩いていたコロスケは、春に腰を悪くしていた。
「右腰が立たなくなってしまって。何しろ支えがないと立っていられない状態だったんですよ。それで5月9日から10日間、ティルドレンという薬を毎日打ってもらったら、少しずつ良くなりました。薬を投与してから3か月たちましたが、自分で立っていられる状態になりましたね」と村石さん。
村石さんと一緒に放牧地へと向かう時の脚取りは、確かにヨタヨタはしているが「頑張れ、頑張れ」と村石さんに励まされながら、4本の脚で地面をしっかりと踏みしめて歩いていた。そして放牧地に入るなり、草を食み出した。今年30歳。その瞳には昨年同様、力が宿っていた。
▲村石さんに励まされながら放牧地へと歩くコロスケ
▲30歳とは思えないくらい若々しい瞳
「30歳とは思えないって、よく言われますよ。あとは冬が心配ですよね。腰が良くなってきたので、冬を越すために食べさせてくださいと言われました。食欲はあるんですよ」と村石さんは、少し心配そうに話す。
なかなか上手くいかない関係「1年間は我慢しました」
コロスケと村石さんの付き合いは、かれこれ20年以上になる。
「30年くらい前だったかな、愛犬を亡くしたんです。私も可愛がっていましたけど、母が特に可愛がっていました。それで母がペットロスになってしまったんです。それで2度と犬は飼わないと言っていたんですよね。でも時間が経つにつれ、やっぱり動物は良いなと。家ではもう飼えないし、それなら乗馬だ! と思って乗馬クラブに入会しました」
通っていたその乗馬クラブで、優秀な練習馬として会員の間で人気があったのが、コロスケだった。
そのコロスケは1985年3月30日に、静内町(現新ひだか町)の三田理行氏の牧場で生まれている。父アローインペリアル、母フジミネという血統を持つアングロアラブだ。村石さんによるとコロスケは大井競馬場にいたらしいが、血統から検索してみても、NARのデータベースには載っていなかった。netkeiba.comのデータ検索では、フジミネの1985となっている。大井に入厩したものの、競走馬としてデビューできずに終わったのかもしれない。
「おじいちゃん(コロスケ)は、頭が良くてね。例えば障害や馬場の経路も、1、2回やったらすぐに覚えちゃうんです。春と秋に乗馬の認定試験があるんですけど、その時には会員さん同士で取り合いになるんですよ。乗っているだけで、あとは全部この子がやってくれるから(笑)。それくらい頭の良い子でした」
それにコロスケは、顔も可愛かった。
「ジャニーズ系って言う会員さんもいましたね」。賢さプラス、可愛さにすっかり嵌った村石さんは、コロスケを買い取って自馬にした。「確か乗馬クラブに入って2年目くらいでしたね。でも最初の1年間くらいは、私に対して反抗に次ぐ反抗だったんです」
その理由を村石さんは、こう分析する。
「練習馬として気楽に過ごせる世界をこの子は持っていたと思うんですよ。それなのに自分が作ってきた世界を私が全部壊してしまったんですよね。それでどのように身を置いて良いのかわからない状態になったのだと思います。もう蹴るわ、噛むわですごかったですよ。あなたを自馬にしたのに、なぜこんな思いをしなきゃならないの? と思ったこともありました。
でも考えてみると、生まれ故郷の北海道から大井に来て、大井から乗馬クラブに移動して。クラブでは最初はオーナーが付いていなかったから、いろいろな人が乗って。そういう状況の中で、これから生きていくために自分なりに気持ちをいろいろ整理したのではないかと思うんです。それで練習馬という自分の世界を作ってきたのに、今度は私がオーナーになった…。だから人間に対する不信感がすごくあったのではないかと。刹那的に生きてきたというか…。特にコロちゃんは、精神的にすごく屈折していたような気がします。だからこの子は、もう手放せない、最後まで面倒をみなければならないと思いましたし、時間をかけて理解してもらうために、1年間は我慢をしました」
コロスケが村石さんの愛馬となった時、周囲からは嫉妬もされた。「この子に乗っていれば、安全ですし何でもやってくれる感じでしたから、乗る馬がいなくなったって会員さんにもよく言われましたよ(笑)」
ところがコロスケは、16歳の時に蹄葉炎を発症してしまう。
「蹄葉炎は落ち着くまでに時間がかかるんですよ。治りはしないんですけど、症状が落ち着いてきたら乗れるようにはなるんです。でも高度なことはできなくなりますよね。そうなればクラブとしても乗馬として使いづらくなりますから、早めによそに出してしまう場合が多いんです。もし練習馬のままだったら、もうコロスケは存在していなかったかもしれません」
どこの乗馬クラブでもそうだが、利益を生み出さない馬はクラブにとってはお荷物となる。餌代、医療費など、費用が嵩むからだ。乗馬クラブとしては、お客に乗ってもらえる馬を置きたいというのは、経営していく上でも、致し方ないのだろう。それだけに「コロスケを自馬にしておいて、本当に良かった」と、村石さんは心から思ったという。
▲こちらに気づいてカメラ目線
▲「ご飯を食べたくなってきたよ〜」とアピール
▲大好きなフスマ入りご飯を夢中で食べるコロスケ
その後はコロスケの体を第一に考えて、預託場所を替えてきた。長野県、埼玉県…。長野県の牧場に預けた時は、住まいのある東京から毎週通った。埼玉県に移った時には。自身も近くに部屋を借りて面倒を見てきた。
「長野が3年半、埼玉が3年半、そしてここには9年目に入りました。ここでもすぐそばにアパートを借りて自炊をしています」
仕事は既にリタイアしているという村石さんは、ほぼ毎日コロスケと過ごす日々を送っている。「この子は、私のことを1番信頼してくれていると思いますよ。ママの行くところは絶対だと思っているから、移動する時も馬運車にもポーンと乗るんです。でもマル(タイビスマルク)は、馬運車に乗るのを嫌がるんですよね。馬運車を見ると、『競馬』を連想するみたいで…。まだ競馬を忘れられないところがあったんでしょうね」
長野の牧場で出会ったタイビスマルクも、コロスケ同様、村石さんの愛馬として余生を過ごしてきた。昨年22歳で天に召されたタイビスマルクのエピソードを、時折涙ぐみながら村石さんは話し始めた。(つづく)
(取材・文・写真:佐々木祥恵)
※小須田牧場
〒407-0301
山梨県北杜市高根町清里3545
電話 0551-48-2267