見事に白くなった馬体
日本全国津々浦々の競馬場を巡ってみたい。その夢を果たせないまま、多くの地方競馬場が業績悪化のために廃止の道を辿っていった。そのうちの1つが新潟県三条市にある三条競馬場だ。戦時中の中断はあったものの、三条競馬は戦前から開催されていた。その長い歴史も、2001年8月16日には終止符が打たれた。
その三条競馬場跡地を利用している三条乗馬クラブを訪ねたのは、8月23日だった。競馬場の跡地だけあって、その敷地は広々としており、2009年のトキめき新潟国体では馬術競技の特設会場にもなった。
かつてコースがあったであろう敷地の向こう側にスタンドがある。このスタンドは、新潟県競馬組合から特別区競馬組合が三条競馬場の施設を継承し、三条場外発売所として南関東の勝馬投票券を発売していた。だが施設の老朽化により、今年1月には発売業務を、3月には払戻業務を終了し、訪問時スタンドは取り壊し工事の真っ最中であった。三条乗馬クラブ代表の増田完市さんによると、この10月にはスタンドも姿を消すという。時代の流れとはいえ、かつてそこに競馬場があったというシンボル的な存在がなくなることに、一抹の寂しさを覚えた。
▲取り壊し工事中の三条競馬場のスタンド
▲競馬場があった頃の名残がある厩舎
」
乗馬クラブに到着したのは午前10時過ぎ。会員さんを乗せた馬が数頭、馬場内で速歩をしていた。増田さんは「あの馬がそうですよ」と、馬場内にいる芦毛を指差して教えてくれた。芦毛が2頭いたため、恥ずかしながらどちらの馬かすぐには判別できず、戸惑っているうちに撮影のチャンスを逃してしまった。
増田さんが指差した「あの馬」とは、乗馬クラブでの名前をタカオハピネスといい、競走馬名はサクラスーパーオー。あのナリタブライアンが勝った1994年の皐月賞(GI)で2着となった馬だ。皐月賞の時はまだ灰色だった馬体は、見事に白くなっている。
「白い馬はお祭りでは喜ばれるんですよ。昨日もお祭りに呼ばれて、夜に帰ってきました」と増田さん。そしてお祭り翌日には会員さんを背に軽い脚取りで馬場を回っている。元気な姿を目にして嬉しくなった。
やがてレッスンが終わり、人馬が引き揚げてきた。馬繋場に繋がれたサクラスーパーオーを、じっくりと眺める。白くなったなあと改めて思った。皐月賞の直線で外から豪快に脚を伸ばしてきた馬と目の前にいる馬が同じ馬とは思えないほど、静かに佇んでいる。会員さんを背に馬場を回っている時の姿は確かに元気ではあったが、競走馬時代の激しさを感じなかったからなおさらだった。
▲レッスンを終えたサクラスーパーオー、馬体はすっかり真っ白に
当時の担当者が明かす競走馬時代の秘話
サクラスーパーオーは、1991年5月13日に、北海道静内町(現・新ひだか町)の谷岡牧場で誕生した。父はダービー馬サクラチヨノオー、母はフランス生まれのメールデイヴオワール(母父ベリファ)で、スーパーオーの芦毛は母から受け継いだものと思われる。成長したスーパーオーは美浦の平井雄二厩舎に入厩して、競走馬としてデビューすべく日々トレーニングを積んだ。
競走馬時代のサクラスーパーオーの担当調教厩務員は、小城(こじょう)誠さん(現在は尾形和幸厩舎)だ。九州出身の小城さんは、高校3年生の時に当時3強と言われたテンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスを中山競馬場で間近に見る機会があった。3頭の馬たちのカッコ良さに惹かれたのがきっかけで競馬の世界に入り、厩務員生活十数年を経て出会ったのが、サクラスーパーオーだった。
「厩舎に来た時は、コロッとしていて幼児体型をしていました。勢いがある馬だなという印象でしたね」と小城さんは入厩当時を振り返る。
「基本的には大人しい馬でしたけど、厩(うまや)から出る時にバーッと走って、厩に戻る時もバーッと走って入っていくという癖がありました。スーパーオーが走ると、自分も一緒になって走っていましたよ(笑)。それに洗い場に入る前は、ワーッと何度も立ち上がるんです。それをひとしきりやらないと洗い場に納まりませんから。しかも洗い場にはバックじゃないと入らない(笑)。入ってしまえば何もしないんですけどね。
お父さんのサクラチヨノオーも立ち上がったり、厩の出入りの時は走ったりしていたと担当の厩務員さんから聞きましたから、その癖は親父譲りだったのでしょうね。僕が乗っている時にポーンとジャンプして、気が付いたら僕が地面にいたということもありました。でも逃げないで、こっちを見てるんですよ(笑)。まあスーパーオーが嫌がることは無理にはやらせず、馬任せで接していました」(小城さん)
立ち上がったり、厩舎の出入り時に走っていたスーパーオーだが、意外な一面も持ち合わせていた。
「一旦厩に入ったら、何もしないですよ。自分に寄ってきてくれますしね。ただ馬房の中で寝る位置が悪くて、よく寝そこないしていました。踏ん張りづらい位置で寝るから、立ち上がろうとしてもよくひっくり返ってましたよ(笑)。失敗しても全く懲りずに、同じことをしていました(笑)。多分、その位置で寝るのが好きだったんでしょうね。立ち上がらせるのに、何回も引っ張りましたよ。ただ自分で立ち上がれないと思ったら、バタバタしないんですよ。そのままジーッとしていて、誰か起こしに来てくれるのを待っている。そういう賢い馬でしたね」(小城さん)
皐月賞、ナリタブライアンの2着に
1993年7月25日の新馬戦でデビューし、初戦、2戦目ともに4着だった。
「千明さん(坂井千明元騎手)が騎乗してくれたのですが、あの時は両前のソエが痛かったんですよね。調教を強くできなかったんですけど、それでも4着、4着と来てくれましたからね。太さん(小島太現調教師)が北海道から戻ってきてすぐに乗ってくれたのですが、これは良いねと褒めてくれました」(小城さん)
その小島騎手が手綱を取ったスーパーオーは、3戦目で未勝利を脱出する。だがその後2戦は2着2回と勝ち切れず、2勝目を挙げたのが4歳(旧馬齢表記)4月の山桜賞(500万下)で、ギリギリ皐月賞に間に合う形となった。
皐月賞の時は「状態も良いし、絶対に来る」という確信めいたものが小城さんにはあった。「皐月賞の前はさすがに調教には乗っていませんでしたが、それまでは普段は乗っていましたし、馬が違うのがわかりました」
皐月賞ではサクラエイコウオーに騎乗する小島騎手に替わって、スーパーオーの鞍上は的場均(現調教師)騎手になっていた。
「スーパーオーはトモの甘い馬で、手前を替えて3完歩から5完歩走らせないとトモが入ってこないんです。それまではモタモタモタモタしている。太さんや的場さんは、それをちゃんとわかっていましたからね。皐月賞でも大外を回って、なかなか来ない、来ないと思っていたら、エンジンかかったらグッと伸びてきました。
ただ勝った馬が強かったですよね。ブライアンも3コーナーで手応えが悪く見えたから、ひょっとするとと思いましたけど、直線向いたら後続を離しちゃいましたからね。スーパーオーも、レコードで走っているのにね。これはもう仕方ないなと思いました」(小城さん)
激戦の翌日、スーパーオーにある変化があった。
「馬房の出入りでダーッと走っていた馬が、月曜の朝は走らずに頭を下げて普通に厩に入ったんです。それ以来、何にもしなくなりました。GIの疲れはそれだけ凄いのかなと。GIを経験して、ヤンチャなことをしていてはいけないなと、馬自身も思ったのかもしれないですよね。本当にあの馬がいろいろなことを教えてくれたと思います」(小城さん)
大きな舞台を経験したことで、スーパーオーは精神的に大きく成長を遂げていた。あとはダービーで、ナリタブライアンを倒すだけ。ダービーに向けて、陣営は闘志を燃やしていた。だが調教のペースが上がったところで、スーパーオーの右前肢に異変が起きた。屈腱炎だった。
「今思えば打倒ブライアンで、皆、力が入っていたんですね。自分も悪かったと思います。もっと普通に淡々とやっておけば良かったんですけどね。少しハードになったかなと思いますね」、小城さんの表情が少し翳った。
ダービー出走、打倒ブライアンの夢がついえ、サクラスーパーオーはおよそ2年という長い休養に入る。復帰後は準オープンの薫風Sで1勝したものの屈腱炎が再発し、1997年11月の富士S(OP・15着)を最後に競走馬登録を抹消した。通算成績11戦3勝。未完のまま、ターフを去った。
ターフを去ってからおよそ18年の歳月が流れた。24歳になったサクラスーパーオーは、競走馬生命を縮めた屈腱炎の後遺症もなく、初心者も乗れてお祭りでも活躍する馬として、三条乗馬クラブで皆に愛され、重宝がられている。そう小城さんに伝えると
「スーパーオーからは、本当にいろいろなことを学びました。この馬のおかげで、その後担当した馬にも優しく接するように心がけるようになりました。馬たちは小さな馬房の中で、こちらを待っていてくれているわけですしね。ちょっと難しい馬への接し方も、スーパーオーが教えてくれました。僕にとってスーパーオーは先生かな。だからスーパーオーが、今も元気でいてくれて大事にされているのは嬉しいですし、感謝ですね」と、笑顔になった。(つづく)
(取材・文・写真:佐々木祥恵)
※三条乗馬クラブ
新潟県三条市上須頃(三条競馬場跡地)
電話 0256-33-1117
訪ねる際は必ず事前に連絡してください。