▲すべての女性騎手の礎となった“斉藤すみ”その生き様を追う
JRAに16年ぶりの女性騎手誕生で、おおいに盛り上がりを見せている競馬界。時代が求めたニューヒロインの誕生は、競馬人気の再燃、入場者数や売上げにまで影響を与えている。今からちょうど80年前、日本で初めて女性が騎手試験に合格した。しかし、その道は苦難そのもの。競馬に乗ることは、ついに叶わなかった。すべての女性騎手の礎となった“斉藤すみ”という女性。たくましく、美しい彼女の生き様を追う。(文:島田明宏)
弟子入りの条件は「男になる」こと
ときは大正時代にさかのぼり――。
岩手の自然に囲まれて育ったその女の子は、3歳のころから馬に乗っていた。「馬っこがすみか、すみが馬っこか」と言われた斉藤すみ(澄子)である。
彼女は、昭和の初め、日本で初めての女性騎手となった。
大正2(1913)年1月23日、斉藤すみは岩手県厨川村の農家に5人きょうだいの4番目の子として生まれた。
どんな時代の人物だったかわかりやすいよう競馬界のレジェンドと比べると、初代ダービージョッキーの函館孫作(1889-1959)より24歳下で、日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳(1920-2009)より7歳、最年少ダービージョッキーの前田長吉(1923-1946)より10歳上、ということになる。
岩手や青森の南東部を含む「南部地方」は、古来より「南部駒」「南部馬」と呼ばれる駿馬を産出したことで知られ、馬が身近な地域だった。すみは、馬の顔を下げさせ、首に抱きつくように体を回して背中に乗り、大人たちを驚かせたという。
彼女が育った家は、居間や台所などと馬房が、ひとつ屋根の下で鉤形につながった「南部曲屋(まがりや)」だ。起きていても寝ていても、大好きな馬の体温と息吹を感じることができた。
父が世を去り、母が病に伏すと、家は生活に窮するようになり、14歳だったすみは学校をやめ、働くことになった。姉たちや、ほかの農家の娘たちのように住み込みの奉公に出て、数年後に顔も見たことのない男のもとに嫁ぐのが当たり前の時代だったが、すみは、違う道を選んだ。