今、鹿児島から福岡へと移動中の車内でこの稿を書いている。
宮崎には我が軍(読売ジャイアンツ)のキャンプを見に来たことがあるのだが、鹿児島に足を踏み入れたのはたぶん人生初だ。
さすが九州、それも南部だけあって、スカッと晴れていたわけではないのに暑かった。
遊びにきているならいいのだが、仕事である。グリーンチャンネル特番のロケで、古い血統をつないでいる馬たちや、その馬たちにゆかりの地や人を訪ね歩いている。
先刻撮影してきたのは家族経営の小さな牧場だ。先代のときには14〜15頭の繁殖牝馬がいたというが、現在は2頭だけ。春先まで4頭だったのをさらに減らしたばかりだという。
今も九州産限定のレースが行われているように、九州は古くからの馬産地である。牧場だけでなく、種馬場もある。
その地にサラブレッドの生産牧場がつくられるのは、プラスとマイナス両方の理由によることが多い。どういうことかというと、まず、広くて緑豊かな敷地を確保できること。これはプラスの理由。マイナスのそれは、気候や土質のせいで農作物を効率よくつくることが難しく、農業で食べていくには牧畜業しかない、というものだ。
私が競馬を始めた1980年代後半は、千葉や茨城などでもサラブレッドの生産が行われていた。よく成田空港方面の牧場を訪ね、繁殖牝馬や仔馬ばかりでなく、82年の宝塚記念で3着になったタクラマカンだとか、バンブーメモリーの母の父のモバリッズといった種牡馬を眺めたり、撫でたりしたものだ。
そうした牧場は、地方の競馬場が姿を消していくのに歩調を合わせるように、年々少なくなっていった。今でも千葉や茨城に馬のいる施設はいくつもあるが、それらはいわゆる外厩や乗馬クラブなどで、私の知る限り、サラブレッドの生産は行われていない。
こんな時代であるにもかかわらず、サラブレッドの生産牧場が残っている地域は、馬が生活のなかに入り込んでいた歴史が長く、人と馬とが物理的にも心理的にも離れがたくなっているのだろう。
九州とサラブレッドというと、思い出すシーンがある。テレビだったのか、ターフビジョンだったのかは覚えていないのだが、ビッグレースを目指す有力馬たちの現状を紹介するVTRが放映された。ほとんどの馬がトレセンで調整されていたなか、バンブーメモリーだけが、九州の海に近い牧場に放牧されていて、脚元を波に洗われながら、海風を受けてカメラを見つめていた。
人間の、特に私の記憶はアテにならないので、本当にそういう映像だったと断言する自信はないが、海辺に立つバンブーメモリーは、佐々木小次郎のようにカッコよかった。
みながレースに向けて始動しているのに、まだ九州にいて大丈夫なのか……と心配になった一方で、その悠然とした感じが、厩舎のボスだったあの馬らしくて、とてもいいと思ったことも覚えている。
今、熊本県内を通過している。熊本には、サーキットのオートポリスで行われたF3000を取材するとき立ち寄ったことがある。20年以上前のことだ。
もうすぐ4月16日に本震が発生した熊本地震から2カ月になる。
九州自動車道から見える範囲でも、ブルーシートで屋根を覆った家が目につく。今なお避難生活をしている人たちが、一日も早く元の生活を、そして、元の日々のリズムをとり戻すことを願っている。
私も、通常営業に戻る、と2週間前の本稿で言ったのはいいが、なかなか難しい。
母を亡くした喪失感も大きいのだが、それ以上に、苦しんでいた姿が忘れられず、もっとしてやれることがあったのではないかと後悔ばかりしている。あの日の午前5時15分、最後に聞いた咳き込むような声も、思い出すたびに違った響きで蘇り、かわいそうで、どうしようもなくなる。
まあ、息子の私より先に死ぬのは普通のことだし、苦しい時間がようやく終わったのだ。少しずつ死に近づいていく恐怖と、何もできない無力感から解放されてよかったのだ。そう自分に言い聞かせているのだが、理屈に気持ちがついて行けていない。
この稿を書き出した夜は久留米のホテルに泊まり、仮眠をとってから午前2時前に佐賀競馬場に行った。早朝というより前夜のつづきのような時間なのに、何頭もの馬が曳き運動を始めていた。
撮影で話を聞いた土井道隆調教師は、20数頭の管理馬の半分ほどにいつも稽古をつけているのだが、一日4時間ほど寝れば充分なのだという。直木賞作家の重松清さんも同じことを言っていた。毎日20時間、プロとして自身を高める活動に使いつづければ、その蓄積はとてつもないものになる。スーパーマンっているんだな、と思った。
今は帰りの機内である。明日は午後から根岸競馬場の跡地、馬の博物館がある根岸競馬記念公苑に行く。
眠くなってきた。私が一日4時間の睡眠で足りるスーパーマンになるのは、70歳を過ぎて、毎朝自然と5時に目が覚めるジジイになったときか。
どこがスーパーだ、という終わり方になってしまった。