今、浦河から新千歳空港へと向かう車中にいる。7月上旬にオンエアされるグリーンチャンネル特番のロケの帰りである。前にこの道を同じ方向に走ったのは、5月20日、本稿の取材と、この番組のロケハンを終え、母が入院していた札幌の病院に向かったときだった。
一緒に動いていた撮影クルーは帰京するが、私だけこのまま北海道に残り、母の(そして将来の自分たちの)納骨堂の手配などをするつもりでいる。
今回の北海道ロケのテーマは、先週の九州ロケと同じ。明治時代に輸入された名牝と、その牝系から出た馬たち、である。
ロケ初日は、新千歳空港でレンタカーを借り、サラブレッド銀座などでイメージカットを撮りながら、片道3時間ほどの浦河町立郷土博物館へ。同じ敷地にある馬事資料館に行くと、1964年に戦後初の三冠馬となったシンザンの父として知られるヒンドスタンの剥製があった。剥製というのは、私の理解では、動物の皮をそのまま使ったものだ。ということは、「ヒンドスタンの剥製」の皮やたてがみは、まさにヒンドスタンのそれなのか。学芸員の伊藤昭和さんに恐る恐る訊ねると、「そうです」とサラリ。
カメラを回しながら、明治末期から昭和初期にかけての種牡馬や繁殖牝馬の台帳などを伊藤さんに見せてもらった。書類を傷めないようそっとめくると、予想もしていなかった資料が出てきて、そのあまりの貴重さに、ちょっとうろたえてしまった。競馬史に残る名馬の血統書だ。それがどの馬のものか、オンエアまで明かせないのが「言いたがり」の私にとってはつらいのだが、この仕事には保秘義務がついて回るので仕方がない。
時間は少し前後するが、浦河町立郷土博物館に着いたとき、私は、32頭の馬像が乗る「優駿の門」をスマホで撮り、「浦河に着いた」とツイートした。すると、何人かの知人はその写真だけでどこなのかわかったらしく、「ヒンドスタンの心臓って、まだ展示されているのですか?」とメッセージをくれた人もいた。その日は気づかなかったので、「ないようです」と返信したのだが、ロケ3日目、追加でブツ撮りをするため馬事資料館を再訪したとき、展示をよく見たら、ヒンドスタンの心臓のホルマリン漬けがあったので、驚いた。
ヒンドスタンは1946年、イギリスで生産され、アイリッシュダービーなどを優勝。現役引退後、アイルランドで種牡馬となるも、めぼしい産駒を送り出すことはできなかった。55年、日高軽種馬振興会が日本初のシンジケート組織として輸入。翌56年から荻伏種馬所で供用が開始された。7度もリーディングサイアーとなり、「戦後最高の種牡馬」と言われた。46頭の産駒が重賞を制し、うち13頭が八大競走を制覇。産駒総数が454頭だから、10頭に1頭は重賞を勝ったわけだ。重賞勝利数113は、サンデーサイレンスとディープインパクトに次ぐ歴代3位の記録である。
八大競走を制した13頭の産駒は、シンザンと、61年の天皇賞・春などを勝ったヤマニンモアー、同じ61年のダービー馬ハクシヨウ、皐月賞馬シンツバメ、桜花賞馬スギヒメ、62年のオークス馬オーハヤブサ、桜花賞馬ケンホウ、63年の天皇賞・秋、有馬記念などを制したリユウフオーレル、64年の天皇賞・春の勝ち馬ヒカルポーラ、同年の天皇賞・秋を勝ったヤマトキヨウダイ、65年の菊花賞馬ダイコーター、68年の菊花賞馬アサカオー、69年の皐月賞馬ワイルドモア、だ。
ヒンドスタンのほうが先輩なので、こういう表現は失礼かもしれないが、61年に別々の産駒が3つのクラシックを勝ったり、シンザンが三冠馬になった64年に別の産駒が春天を勝ったりと、サンデー級、ディープ級と言いたくなる独占ぶりを発揮した。
ヒンドスタンは、68年10月16日、22歳で死亡した。世を去ってから今年で48年、生まれてからは70年にもなる。
その馬の剥製と心臓があるのだから、インパクトは普通ではない。隣には馬の胎児のホルマリン漬けもある。心の準備が必要だとは思うが、なかなか見る機会のないものであることは間違いない。
ロケ2日目は、かつて新冠御料牧場だった新冠牧場と、新ひだか町博物館で撮影。3日目は、今回の主役の名牝の末裔がいる生産牧場を訪ねてから、前述したように、再度浦河の馬事資料館にお邪魔した。
北海道に来てから、涼しいと言うより寒いと言ったほうがいい日がつづいている。
また、私たちが浦河を出て少し経ったとき、道南を中心に強い地震があり、函館では震度6弱を観測した。カーラジオから緊急地震速報が聴こえたときはギクリとしたが、今週から開催の始まる函館競馬場を含め、大きな被害は出ていないようで、ほっとした。
私のことまで心配して連絡をくれた人もいたが、地震発生時に私たちがいたエリアの震度は1だった。ピンピンしているので、安心してください。