▲吉備ひだまり牧場を運営する森光康裕さん範子さん夫婦
(前回のつづき)
「常識はずれの年齢から厩務員を始めました」
岡山県にある吉備ひだまり牧場は、森光康裕さん、範子さんの夫婦二人三脚で運営している。牧場開設は2014年5月。今年で3年目を迎えた。
牧場を始める前は、夫妻ともに園田競馬場の厩務員だった。夫で牧場代表でもある康裕さんが、厩務員になったのは29歳。
「あり得ないくらい常識はずれの年齢から、厩務員を始めました(笑)。それまでは会社員をしていて、乗馬クラブで乗っていたとか、そういう経験もなかったんです。馬に興味を持ったのが圧倒的に遅かったので、馬の仕事に就きたいと思った時には、その年齢になっていました」
競馬場に行って馬券を買うようになったのは、社会人になってから。二十歳過ぎだ。ギャンブルから競馬に入ったはずなのに、馬に直接関わる仕事をしたいという気持ちが、なぜか年々強くなっていった。
「できるかどうかの自信もないですし、裏付けも全くなかったんですけど、会社員として仕事をしながら思いがどんどん膨らんできました」
その気持ちを抑えきれなくなって、ついに転職活動を始めたものの、難航した。
「あちらこちらに電話をかけてみても、全く取りつく島がない。年齢と経験を言うと、ガチャンと電話を切られました。牧場側にしてみたら、十代の若くてイキの良い人を採用したいのに、それより10歳くらい上の、しかも馬に触ったこともないド素人が働きたいと言ってくるんですからね。今、実際に馬の仕事をしてみて、牧場のその対応も当然だなと思います。当時は競馬ブームでしたから、競馬の華やかなところだけ見て甘い考えで馬の仕事をしたいと言ってきているんだろうと思われて、2、3年は、どこの牧場にも引っ掛かりませんでした」
それだけ断られ続けると、さすがに心が折れそうになった。もう少し早く気づけば良かった、甘かったと後悔もした。
「それでもしつこく探していたら、高崎競馬場のとある厩舎の厩務員募集を求人雑誌で見つけました。そこには未経験者可と書いてありましたけど、牧場の求人にもそう書いてあったのに断られていましたから、無理かなと思いつつ電話をかけてみました」
先方の調教師には「競馬の仕事はきついし、中央競馬ほど収入が良いわけでもない。会社員として不安も不満もなく、ちゃんと給料ももらえているのだから、辞めてまで来るところではない」と説得された。
「それでもどうしてもやりたいんですと伝えたら、別にウチは来てもらっても構わないですけど…と言ってもらえたので、じゃあここしかないのかなと。会社を辞めて高崎競馬場のその厩舎に入りました」
ようやく入った競馬の世界は、予想していた以上に大変だった。
「もう死ぬかと思いました。こんなに危ないものかと。よく3Kと言われますけど、キツい、汚いは覚悟していたので大丈夫でしたけど、危険だけは想像以上で、正に命懸けの仕事だとつくづく感じました。一歩間違ったら命を落としていたなというのも、2、3回じゃないですから。危ない馬やうるさい馬が自分に回ってきた時には、朝が来るのが憂鬱でしたし、胃が痛くなったこともあります。入ってしばらくは、自分にできるのかとずっと考えていましたけど、とりあえず3か月は頑張ってみよう。3か月たってもまだ、もう持たないんじゃないかという精神状態だったら、きっぱり諦めるつもりでした」
目の前の仕事をこなしながら、3か月が過ぎたが、知らず知らずのうちに慣れてきていた。
「蹴ったり、立ち上がったり、振り落としてくるようなうるさい馬を、何とか死なない程度に扱えるようになってきて、もう少し続けてみようかなと。大人しい馬だと仕事をなめちゃうので、そこそこうるさくて緊張するような馬をやらせて様子を見ていたと、あとから調教師は言っていました。まあウチの厩舎に来ていいよと言ったものの、3日で夜逃げするだろうと、調教師をはじめ皆思っていたみたいなんですけどね(笑)。
調教師も可哀想に思ったのか、飼い葉のやり方、手入れや脚の拭き方からいろいろと教えてくれましたし、曳き馬などは他の人を見て、体験して体で覚えて、いつの間にか続いていたという感じです」
担当馬が勝った時の喜びは格別だった。それも仕事を続ける原動力となっていた。
康裕さんが仕事のイロハを教わった高崎競馬場を離れたのは、馬に乗ってみたいという気持ちが大きくなったからだった。
「攻め馬は所属ジョッキーが乗っていましたし、未経験で入ったので当然馬に乗れないんですよ。でも仕事をしているうちに、馬も乗ってみたいと。競走馬で練習するわけにもいかないですし、育成牧場で勉強してみようと、石川県にある育成馬や休養馬を預かる牧場で働き始めて、休み時間に練習馬に鞍をつけて教えてもらっていました」
牧場で1年を過ごした康裕さんは、今度は園田競馬場でキャリアを重ねていった。
▲岡山県にある吉備ひだまり牧場、康裕さんは後に、この牧場を開設することとなる
「私には馬が1頭ついてきますけど…(笑)」
園田競馬場で出会ったのが、のちに伴侶となる範子さんだった。範子さんは、最初は北海道の生産牧場で働いていた。
「生産牧場では、毎日こんなに楽しくていいのかなと思っていたのですけど、最初に親子を乳離れをさせた時に、この子たちはこれから育成牧場に行って、競馬場に行っていろんな人に出会うんやろな。どんな人に会うんやろ、大事にしてもらえるかなと思ったんです」
若駒だけではない。繁殖牝馬も、子出しが悪ければ処分されていく。競馬の世界の悲しさ、切なさを、馬産地での仕事を通じて範子さんは知った。生産牧場の次は、浦河町にある乗馬施設も併設しているアエルの研修生となり、ここでも楽しく毎日を過ごした。そんな時、街のパン屋で引退馬協会のチラシを偶然手にする。
「可愛い仔馬がいたら、この子を引き取って一生一緒にいたいなと考えたこともあったんですけど、一牧場スタッフに何ができるんやろと思っていた時に、このチラシを目にしたんです。それでこんなこと考えてやってはる人がいるんやと思ったんですよね。ただ研修生でお給料が少なかったですから、その時は何もできなかったのですけど、このチラシがいつか役に立つ日が来るかなと、ずっとこのチラシと一緒に引っ越しをしていました(笑)」
研修生時代に園田競馬場を紹介された範子さんは、厩務員として新しい一歩を踏み出した。牧場や研修生時代よりも収入がアップしたことで、「馬で得たお金は馬に還元しよう」と思い立った。大切に保管していた引退馬協会のチラシが、ここで役に立った。
厩務員時代は康裕さんと同じように、命を落とすのではないかという経験を何度もした。
「生産牧場や乗馬施設で大人しい馬しか触っていなかったので、なんで競走馬っていつもこんなにイライラしているんやろって思って。放馬しては所属厩舎の先生がパンツ一丁で慌てて上から降りてきて『大丈夫かあ』と心配してくれたり(笑)。私のワーッという声が聞こえたら、先生はすぐに飛んできてくれて(笑)。馬の脚を拭いていたら、馬の膝がゴツンと当たって目を腫らした時には『こっち見んとって、笑けるやんか』って、周囲の人にからかわれたりとか…(笑)。そんな日々でした(笑)」
関西弁も相まって、範子さんの語るエピソードは笑いを誘う。
康裕さんと範子さんは別の厩舎に所属しており、厩舎地区も離れていたために、はじめはお互いに存在を知らずにいた。やがて同じ厩舎地区の勤務となり、2人は出会った。結婚の話が出た時に、範子さんは一生一緒にいようと決めた思い入れの深い馬を担当していた。
「プロポーズされた時に、私には馬が1頭ついてきますけど…と答えました(笑)」
結婚を機に康裕さんは、範子さんの勤める厩舎に移ってきた。ちなみに範子さんの可愛がっていたその馬はアングロアラブのストロングゲイルといい、新潟競馬に在籍時には新潟アラブ優駿など12勝する活躍をし、園田競馬に移籍してからも8勝を挙げている。引退後は北海道浦河町のナイスネイチャでお馴染みの渡辺牧場で余生を過ごして、天国へと召された。
ストロングゲイルの次は、サマニターフを引き取った。この馬はのちに、引退馬協会のフォスターホースとなっている。範子さんはじめ、引退馬協会関係者などたくさんの人に愛されたサマニターフは、残念ながら2013年6月に腸捻転でこの世を去った。12歳だった。
「サマニターフの次、3代目がふっちゃんなんです」
ふっちゃんは、ストロングフローラ(牝13)という名前で、中央、地方合わせて75戦2勝の成績を残した。そしてふっちゃんは今、吉備ひだまり牧場にいる。ふしぎちゃんことダンツシンガー(牝13)といつも放牧地では一緒に時を過ごし、岡山の地で、穏やかな日々を送っている。
▲ふっちゃんことストロングフローラ、中央地方合わせて75戦2勝の成績を残した
競馬の世界で、現役の厩務員が自分で馬を引き取ったり、引退後の行き先を見つけるということは、競馬の世界ではほとんど理解はされず、むしろタブー視されていると言っても過言ではない。現場で取材をしていて「引退した馬の行方を追ってはいけない」という言葉を時折耳にする。それを考えると、範子さんの行動はかなりの勇気が必要だったはずだ。それでも範子さんは、担当した馬の命を救いたいという気持ちを、いつも持ち続けていた。その強い思いこそが、吉備ひだまり牧場開設へと繋がっていった。
(次回へつづく)
※吉備ひだまり牧場
(現在、一般見学は中止しています)
HP
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https://www.facebook.com/吉備ひだまり牧場-551011321631051/※吉備ひだまり牧場応援団 おひさま会
現在はストロングフローラ(ふっちゃん)とダンツシンガー(ふしぎちゃん)を会で支援します
http://mauka.web.fc2.com/ohisama.html※認定NPO法人引退馬協会
http://rha.or.jp