「馬名プロファイラー」として知られる英文学者の柳瀬尚紀(やなせ・なおき)氏が7月30日、競馬評論家の清水成駿(しみず・せいしゅん)氏が8月4日、そして、騎手時代「ターフの魔術師」の異名をとった武邦彦氏が8月12日に亡くなった。
さらに、1987年の天皇賞・秋などを勝ったニッポーテイオーが8月16日に世を去った。
20年以上前から知っている人や、お世話になった人、また、私が競馬にのめり込むきっかけをつくった馬が、つづけて天国へと旅立って行った。
ニッポーテイオーは33歳と長生きしたが、柳瀬氏は73歳、清水氏は67歳、武氏は77歳と、早すぎる旅立ちだった。
「武氏」と書くと、私が大好きだった「タケクニ先生」とは別の人のような気がしてくるので、ここでもタケクニ先生と記したい。
武豊騎手や武幸四郎騎手、また、ほかの関係者との会話で名前が出てくるとき、私はいつも「タケクニ先生」と言っていたのだが、ご本人には、ほかの調教師に対するのと同じく「武先生」と呼びかけていた。ところが、一度だけ、カメラが回っているとき、「タケクニ先生」と言ってしまった。実は、「ミスター競馬」野平祐二氏(2001年逝去)にも「祐ちゃん先生」と言ってしまったことがあったのだが、ふたりとも同じように、一瞬「ん?」という顔で私の目を見て、すぐ小さく笑ったような表情になり、話を進めてくださった。
タケクニ先生は、武豊騎手とほぼ同じ170センチほどの長身だったので、騎手時代は、夕食に箸をつけたことがなかったという。食卓の上に、ほかの家族同様、自分のごはんとおかずは並べられていても、手をつけるのはビールだけという毎日だった。
調教師に転身してからは、夜、食事を口にすることもあったようだが、体重は騎手時代と変わらなかった。
騎手時代も食べても増えなかったのかもしれないが、夜は体に食べ物を入れないという日常が、騎手・武邦彦のプロ意識の表れだった、ということだろう。
武豊騎手の師匠だった故・武田作十郎厩舎に所属していたこともあった。武邦彦−河内洋−武豊という、輝かしい「タケサクライン」の師弟が、「見て盗む」という形で、技術をつないできたわけだ。
騎手として、通算1163勝。その父の勝ち鞍を武豊騎手が超えたのは、1996年、ダンスインザダークで菊花賞、エアグルーヴでオークスを勝った年の9月のことだった。最終的に159勝を挙げ、岡部幸雄氏が保持していた138勝という年間最多勝記録を更新した年だ。それほどの大騎手になっていたのだが、「数字のうえでは追い抜いても、騎手として親父を超えたとは思っていません」と話していた。
その言葉を、武豊騎手が98年にスペシャルウィークでダービー初制覇を飾ったあと、タケクニ先生に伝えた。すると、先生は「豊には、ダービーを勝つまでは私を超えたことにならないと言っていたのですが、勝ちましたね」と嬉しそうに笑っていた。
遠目にもすぐその人とわかる、スラリとした長身。ホースマンとしても、人間としても素晴らしくて、かっこよくて、誰に対しても優しい紳士だった。
――武先生、お会いできて光栄ですし、お話しできて嬉しかったです。ロングエースのダービーやトウショウボーイの2度の有馬記念、そしてインターグシケンの菊花賞のことなど、もっといろいろお話をお聞きすればよかったと、今ごろになって思っています。本当に、ありがとうございました。
さて――。
ニッポーテイオーが死亡したというニュースを知ったとき、私が初めて馬券を買った87年の秋天のシーンが蘇ってきた。馬券はかすりもしなかったが、そのおかげで、なぜたかだか2分後の未来を見通すことがこんなに難しいのか、私が買った馬はなぜ敗れ、馬券に絡んだ馬たちはなぜ上位に来たのか……と考え、血統やローテーション、状態、コース適性、厩舎、騎手といった要素について調べるうちに、自然と競馬にはまってしまった。
あの秋天を見ていなければ、私は書く対象として競馬を中心に据えることはなかったかもしれない。物書き以外の仕事をできないことは確かなので、何かをメインテーマに持って書くことで食っていたとは思うのだが、ともかく、そう考えると、私にとっては大きな存在だった。
そのニッポーテイオーを同時代で見ていない人には、私はいつも「ダイワメジャーにイメージや脚質、強さが近い馬」と説明している。「ハルウララの父」でもいいのだが、事実ではあっても、私が思う「ニッポーテイオーらしさ」とは違うような気がする。
時間というのは、確実に経過していく、ある意味、無慈悲で残酷なものでもあるが、薬になることも確かだ。
尊敬する人、偉大な人の死というのは、そうした時間の二面性によって、やがて糧になっていくのだと思う。