今週末をもって夏競馬は終わり、来週末から秋競馬が始まる。
夏競馬と秋競馬とを分かつラインは比較的明瞭で、今年の場合、新潟、小倉、札幌で行われていた開催が、中山、阪神という中央場所に移る、ということだ。
来週になれば急に夏が終わって涼しくなるわけではないのだが、それでも、例えば、自分がいつお兄さんからオジサンになったのか――という、曖昧で、幅のある境界線よりはわかりやすくていい。
まあしかし、それは私たちファンの目線によるラインであって、厩舎関係者は、秋のGIのトライアルに出走する馬の追い切りを、残暑の厳しいうちにやっていたりするわけだから、「扉をあければその向こうに秋がある」という感覚ではないだろう。
夏の終わりから秋にかけて。生産牧場で働く人にとって、セリで売れた若駒が旅立って行く「別れの季節」であり、育成牧場で働く人にとっては1歳馬の馴致で忙しくなる「始まりの季節」といったところか。
私はこの「季節の変わり目」というやつがどうも苦手である。
冬から春にかけては、花粉症の薬を飲みはじめなければならない。
春から夏にかけては、40年近くかかりつづけている五月病が尾を引いてしまう。
今この時期は(これはいいことでもあるのだが)競馬関連の原稿依頼が急に増えて、せっかく寝苦しい夜が少なくなっても、充分な睡眠時間がとれなくなる。
秋から冬にかけては、これから寒くなるというだけで気が滅入る。
あれもヤダこれもヤダ、と、まるで「生きているのがつらい」と言っているようなもので、我ながら情けない。
さて、先々週の本稿で、「タケクニ先生」こと武邦彦氏をはじめ、近い過去に逝去した方々について書いたが、それが世に出た8月20日に競馬評論家の石川ワタルさんが亡くなっていたことを、つい先日知らされた。まだ69歳だった。
特に海外競馬に造詣が深く、「優駿」「週刊競馬ブック」などに、軽妙なタッチの文章を寄稿されていた。お酒とダジャレが好きで、離れた席にいても「何を祐天寺(ゆうてんじ)」だとか「そんなことナイジェリア」という大きな声で、どこに石川さんがいるのかすぐにわかった。
私がもっともお会いすることが多かったのは、JRAの図書室だった。それが示すように、きちんと調べ物をしたうえで、土台のしっかりしたものを書かれる人だった。動かしがたい事実だからこそ、ちょっとした齟齬に笑えるところがあるもので、そうした事例を巧みにとり上げる技術は、書き手の後輩として何度も参考にさせてもらった。
次によくお会いしたのは、ドバイやロンシャン、シンガポールなど、海外の取材先であった。日本で海外のGIの馬券が買えるようになるといい、だとか、三連単を百円より低い最低単位から買えるようにしてほしい、といったことをたびたび書かれていただけに、この秋の凱旋門賞を前に旅立つことになったのは残念だった。
6月9日に錦岡牧場の土井睦秋氏が亡くなってから、競馬界、競馬マスコミ界の大物の訃報がつづいている。土井さんは70歳だったが、とてもその年齢には見えない、素敵な人だった。
私は、1990年代なかごろ、武豊騎手がアメリカやヨーロッパに遠征したとき、現地で土井さんにお会いし、親しくさせてもらうようになった。
酒を一滴も飲まない、いや、飲めないのに、遊び上手で、大きな仕事をやってのける人――私から見て、その代表格が、直木賞作家の浅田次郎さんと、この土井睦秋さんだった。
土井さんは、大学卒業後アメリカに渡り、牧場で1年過ごしたのち帰国するも、2年後、今度はヨーロッパへと飛んだ。ニューマーケットやシャンティーの厩舎で修業を積み、27歳だった1973年、アメリカでGIひとつを含む11勝を挙げたヤマニンを競り落とした。
日本に戻って新冠に錦岡牧場を設立し、ヤマニンゼファー、ヤマニンミラクルなど、大舞台で活躍する生産馬を送り出した。
牧場名を錦岡牧場としたのは、最初に苫小牧の錦岡で馬づくりに情熱を燃やした父への感謝からだった。そして、その父に自分を認めさせるきっかけをつくった名馬ヤマニンの名を、生産馬の冠に用いるようになった。
そういった話を、カラオケのあるロンドンのバーで、「ダイアナ」を英語で、「自動車唱歌」を小林旭のモノマネをしながら抜群の歌唱力で披露しながらしてくれる、面白くて、カッコいい人だった。
石川さんも土井さんも、私よりずっと上の世代の人という感じはぜんぜんしない。
あまりにも早すぎる。伊集院静氏が書いているように、いい人から先に逝ってしまうのは、天国がいいところだからだと思いたい。
私がいい人かどうかはさておき、石川さんや土井さんの享年まで20年もない。季節の変わり目がイヤだとか、子供みたいなことを言わずに、もっと焦って、何事かをなさなくては。