10月10日の体育の日、東京競馬場の競馬博物館でグリーンチャンネル「草野仁のGate J.プラス」の公開収録が行われた。ゲストは俳優の藤岡弘、さん。私にとっては、子供のころ夢中になって見ていた「仮面ライダー」の劇中で、仮面ライダー1号に変身する前の「本郷猛」である。とても気さくで、また、熱い方だった。馬との関わりや、騎馬武者を演じるため30キロの甲冑を着たときの話などを、打合せのときも本番と変わらぬ真剣さで、丁寧に語っていたのが印象的だった。
今、競馬博物館で特別展「ハイカラケイバを初めて候(そうろう)」が開催中なので、草野さんとアシスタントの瞳ゆゆさん、そして藤岡弘、さんが、番組のコーナーのひとつして展示を見て歩いた。そして、ホールでの収録の最後の5分ほど、私もゲストとして出演し、今も残る根岸競馬場のスタンドについて、また、根岸競馬場が輸入した名牝ミラなどについて話をした。
この収録にあたり、番組のレギュラーコーナー「競馬でQ」のために、私はクイズを4問つくっておいた。ゲストの藤岡さんのお父さまが歴史ある古武道「藤岡流」の継承者ということで、競馬の歴史、「競馬史」をテーマとした問題だ。
ところが、である。「ああ、今回『競馬でQ』はやらないっス」というディレクターのレイ(実在する)のひと声でボツになってしまった。
趣味でクイズをつくっているわけではもちろんなく、私が唯一請け負っている番組制作関連の仕事が、「競馬でQ」の問題づくりなのである。
5分や10分でできるものならいいが、何時間もかけて書いたものが日の目を見ないのは悲しい。今回のクイズは、藤岡さんがゲストなので歴史や伝統をテーマとし、競馬博物館の特別展「ハイカラケイバを初めて候」にも結びつく内容にしたので、ほかのゲストのときに使い回すことができない。
ということで、本稿の読者の方々に楽しんでいただきたい。
問題、答え、次の問題、答え……という順にすると、スクロールしすぎて答えが見えてしまうので、問題を4つまとめて提示し、その下に答えを4つまとめた。下に行ったり、上に戻ったりで読みづらいかもしれないが、お許しを。
■Q1
かつて、戦前や戦後まもないころの日本の騎手たちは、厳しい徒弟制度のなかで馬乗りを覚え、一人前になっていきました。そして、騎手の乗り方にも、古武道と同じように「流派」がありました。
柴田流、秋山流など、いくつもの流派のなかで最大の勢力を誇ったのは、「大尾形」と呼ばれた尾形藤吉調教師の門下生による「尾形流」でした。
ここからが問題です。
尾形流の乗り方は、どんな戦術をとるのがよしとされたでしょうか。次の3つからお選びください。
(1)逃げ (2)先行 (3)追い込み
■Q2
今年は、日本初の本格的洋式競馬場である根岸競馬場の開設150周年にあたります。
根岸競馬場の主催者「日本レースクラブ」が1899(明治32)年に輸入したミラという牝馬は、15戦から17戦ほどして11勝という素晴らしい成績をおさめ、「近代競馬の黎明期に登場した、日本で初めての名牝」と言われました。
その名牝ミラは、次のどの国から輸入されたでしょうか。
(1)イギリス (2)フランス (3)オーストラリア
■Q3
1933(昭和8)年11月、府中の東京競馬場でレースが行われるようになるまで、東京競馬場は目黒にありました。
ここからが問題です。
現在の東京競馬場は左回りでレースが行われていますが、目黒にあった東京競馬場も左回りだった。マルかバツか、どちらでしょう。
(1)○ (2)×
■Q予備
天皇賞は、今年の秋で154回目を迎える、大変歴史のあるレースです。天皇賞のルーツは、1880(明治13)年6月9日に根岸競馬場で行われたミカドズベースにさかのぼります。明治天皇は、この年以降、ほぼ毎年根岸競馬に賞品を下賜するようになりました。
ここからが問題です。
明治天皇は、トータルで何回、根岸競馬場に行幸されたでしょうか。
(1)1回 (2)5回 (3)13回
問題はここまで。以下は答えと解説。
■A1
正解は3番の「追い込み」です。
「追い込みの尾形流」と呼ばれたこの流派には、日本にモンキー乗りをひろめた保田隆芳、「ミスター競馬」と呼ばれた野平祐二など、数々の一流騎手がいました。こうした騎手たちが、同じ負けるにしても、後ろから追い込んで少し届かなかったのなら尾形調教師は何も言わなかったのですが、先行して差し届かないレースなどしようものなら、雷が落ちたそうです。鉄拳制裁が普通の時代でしたので、手や、場合によっては鞭が飛んでくることもあったようです。
昔は、流派によって、手綱の持ち方や、馬の上での上体の角度などが違ったので、遠くから見ても、すぐ「おっ、あいつは何々流だ」とわかった、ということです。
今は、競馬学校でみな一緒に馬乗りを習い、同じ訓練を受けますので、そうした流派はなくなってしまいました。
■A2
正解は3番の「オーストラリア」です。
日本レースクラブは、1888(明治21)年から治外法権的に馬券を発売していましたので、資金が潤沢でした。
その財力を生かし、外国から競走馬を輸入して走らせ、日本の近代競馬のレベルを高めていきました。
もちろん、競馬の本場は当時もヨーロッパでしたから、イギリスやフランスからサラブレッドを輸入したかったのですが、馬の価格と輸送日数などの問題で、オーストラリアから輸入することにしたのです。
1899(明治32)年の9月、オーストラリアから輸入した30頭の競走馬のなかにいたのが、このミラでした。引退後は、新冠御料牧場で繁殖牝馬となり、その子孫から初代ダービー馬のワカタカやヒカルイマイなどの名馬が出ました。
ただ、ミラが輸入されたとき、血統書がついていなかったため、純粋なサラブレッドとはみなされず、「サラ系」の烙印を押されてしまいました。そのため、子孫のワカタカやヒカルイマイは、種牡馬としては不遇なまま終わってしまいました。
■A3
正解は2番の「バツ」です。
目黒競馬場とも呼ばれていた、目黒の東京競馬場のコースは右回りでした。
1周1マイルの楕円形で、直線の長さは400メートルほどでした。
日本ダービーが行われた芝2400メートルのスタート地点は、向正面の3コーナーに近いところにありました。
ワカタカが勝った1932(昭和7)年の第1回日本ダービーと、カブトヤマが勝った第2回日本ダービーは、右回りで行われていたのです。
府中の東京競馬場で日本ダービーが行われるようになったのは、1934(昭和9)年の第3回からでした。勝ったのは、尾形藤吉厩舎のフレーモアでした。
■A予備
正解は3番の「13回」です。
1881(明治14)年5月10日に初めて行幸されてから、1899(明治32)年5月9日まで、毎年のように根岸競馬場でレースを観戦されました。
これだけ何度も行かれたのは、日本の在来馬を強くするため、競馬を奨励することが必要だと考えられたのだと思われます。あるいは、純粋に競馬がお好きだったのかもしれませんね。
根岸競馬場の近くで生まれ、少年時代を過ごした国民的作家の吉川英治は、天皇の根岸行幸を、自叙伝『忘れ残りの記』に次のように記しています。
「天覧競馬のレース当日などは、横浜中の祭典といってもよかった。市中もその話題で持ちきって、スペインの牛祭か何かのような騒ぎだった」
以上、「競馬でQ」熱視点特別バージョンでした。
では、みなさま、よい週末を。