ダービー制覇、1000勝達成、自身重賞最多勝利更新──川田将雅にとって、2016年は特別な年となった。しかも、1000勝到達はあの武豊に次ぐスピード記録。着々と腕を磨き、脇目もふらずに上り詰めてきた証だろう。ジョッキーとなり12年半。はたして川田をここまで駆り立ててきたものとは何なのか。闘志の源に迫った。(取材・文=不破由妃子)
天才・武豊に次ぐスピード記録
9月11日、阪神6R(3歳未勝利)。ラブアンドドラゴンとともに、川田将雅が自身1000回目となるトップゴールを駆け抜けた。デビューから12年6カ月5日目での大台到達は、武豊(8年4カ月23日)に次ぐスピード記録として大きく報道された。
「豊さんに次ぐ2番目の早さだったということは、新聞の記事で知りました。自分としては、これまで乗せていただいてきた馬たちの能力を考えると、正直、時間が掛かったな…という印象だったので、ちょっと意外でしたね」 900勝目を挙げたのが、昨年の12月5日(中京2R・3歳上500万下・ワイルドダラー)。それまで彼にとって節目の数字は単なる通過点に過ぎなかったが、このときばかりは「次(1000勝)は違う」と、早くから“そこ”を見据えていた。
「900勝に到達したとき、その事実よりも“次は1000だ”ということを強く意識しましたね。やはり桁が変わるというのは大きいこと。1000勝を迎えたときは、800勝や900勝のときとはまったく違う気持ちでした」▲「1000勝を迎えたときは、800勝や900勝のときとはまったく違う気持ちでした」(C)netkeiba.com
1000の壁を超えたのは、川田を含め、史上31人、現役では14人。浮き沈みの激しいジョッキー界において、誰もが易々とたどり着ける場所ではない。そこに、早くから天才の名を欲しいままにしてきた武豊に次ぐスピードで到達した。これは本当にすごいことだ。
いったい“川田将雅の強さ”とは何なのか──。
いうまでもなく、ジョッキーとは騎乗依頼があって初めて成り立つ仕事。今の時代でいえば、エージェントの尽力を筆頭に、周囲の人間の支えがあってこそである。ただ、川田は競馬(佐賀)一家の出自ながら、中央競馬には血縁というパイプを一切持たない。よって、そのパイプを持つジョッキーたちとはスタート地点が違ったのはもちろんのこと、傍目には不遇にすら映った。
同期の多くが3月6日の土曜日に初陣を飾るなか、川田は翌3月7日、中京2Rでデビュー(シュアリーゴールド5着)。翌週は騎乗馬がなく、初勝利はデビュー4戦目となる3月20日、阪神8R・4歳上500万下(ホーマンルーキー)。結果的に、トータル35勝を挙げて新人賞を受賞した藤岡佑介には大きく水をあけられたスタートとなったが、それでも限られた騎乗数(年間255鞍)で初年度から16勝をマーク。2桁人気馬で馬券に絡むことが多かったことから、穴党には早くからその名が浸透していた。
「デビュー初年度から、本気で40勝はできると思っていました。なぜ40勝だったかというと、父の厩舎(佐賀競馬)の所属ジョッキーが初年度から30勝以上を挙げたのを見ていて、『俺のほうが絶対に巧い!』と思っていたから(笑)。今思えば、いかにも浅い考えですよね。結局、勝ち星が伸びた2年目も39勝で、40勝には届きませんでしたから」たとえ10着争いであっても本気で挑む
2年目の年末、川田にとって大きな転機が訪れた。まだ減量の恩恵が残るなか、所属の安田隆行厩舎からフリーに転身したのだ。その顛末について、川田は多くを語らない。ただ一言、当時を振り返り
「不安しかなかった」と胸中を漏らした。
「当時は勝つこと以前に、騎乗馬を確保することが大変でしたし、ましてやチャンスのある馬に乗せていただくことなんて本当に限られていました。もちろん、日本一になることを目指してジョッキーになったわけですが、当時まず思ったのは、先ばかり見ていてもしょうがないなということ。とにかくひとつひとつ、自分に与えられた目の前のことに誠心誠意取り組もうと思ったんです。それが“その先”にたどり着くための、一番の近道だと思いながら」 ひとつひとつ、与えられたことに誠心誠意取り組む──正直、伸び悩む若手からは、よく似たようなフレーズを聞く。もちろんそれは心構えとして本当に大事なことであり、それなくして未来は開けない。ただ、川田がほかの若手と違ったのは、おそらくその“熱量”だ。
数年前、川田の後輩がこんな話をしてくれた。
「直線の川田さんの負けん気は本当にすごいんですよ。それがたとえ10着争いであっても、本気で競りかけてくる。それはもう、圧がすごいんです。だから、横にいるのは川田さんだとすぐにわかるんです」 この話を改めて川田にぶつけてみると、それこそが自身の生きざまであるかの如く、こうキッパリと言い切った。
「そうそう(笑)。勝ち負けに関係ない位置だとしても、絶対、隣にいる馬に負けたくないんですよね。何着であれ、目の前にいる馬は絶対に捕まえたい。とにかく何事においても、嫌なんですよ、負けるのが。負けたくないんです」 川田の小学生時代には、こんなエピソードがある。川田の地元では、毎年、小学生による相撲大会が行われており、強制ではないものの、みなが当たり前のように参加していた。川田ももちろんその一人だったが、なにせ体が小さいため、学年が上がってもどうしても勝つことができない。それでも、明らかに体格の違う相手に果敢に挑んでいく川田に対し、ある年、見かねた母親が
「将雅、もう相撲に出なくていいよ」と言ったそうだ。
が、川田の答えは
「来年は勝てるかもしれないじゃん!」。結局、相撲では一度も勝てなかったそうだが、川田はこうして幼い頃から心を鍛え、先天的な負けん気に磨きをかけてきたのだろう。このエピソードからもわかる通り、とにかく負けるのが嫌いであり、なおかつ負けをそのままにはしておけないタイプ。負けた悔しさを原動力に…とはよく聞く言葉だが、それを確実に成長の糧とするには、相当な精神力が必要なのではないか。
「ジョッキーとは、たとえ世界レベルのジョッキーであっても、負けることのほうがはるかに多い仕事です。僕がJRA賞の最高勝率を獲った年ですら、勝率は1割5分ですからね。ホントに“どんだけ負けてんねん!”ていう話ですよ。だからこそ、その“負け”を無駄にはできない。その“負け”のなかで何を学び、何を得て、いかに次に生かせるかが勝負だと思うんです。その考えは今も変わりません」▲「“負け”のなかで何を学び、何を得て、いかに次に生かせるかが勝負だと思うんです」
手綱の長さ、鐙の長さ、自身の重心の位置などなど、当時の川田はあらゆることを自身の体で試し、ひとつでも上の着順に持ってくるにはどうすればいいかを模索し続けた。先述した10着争いに本気で挑むこともそのひとつだ。
「どうしたら隣の馬より少しでも前に出ることができるか、その繰り返しのなかで学んだことは大きかったと思います。ただ、今にして思うのは、大事なのは直線に向くまでの過程であり、直線そのものではないということ。当時は、直線で追うことに命を懸けていましたからね(笑)。キャリアを重ねるごとに、4コーナーにくるまでの過程がいかに大事かということを理解しました」「うちの馬は、お前が乗るようには作ってない」
川田が理解を深めるきっかけを作ったのは、ほかでもない、今年の2月いっぱいで引退した松田博資だった。川田が主戦となるずっと前、松田博厩舎の忘年会に参加した際、師からこんな言葉をぶつけられたという。
「お前が乗ると、うちの馬が壊れる。うちの馬は、お前が乗るようには作ってない。だから、お前を買っている近藤オーナーの馬以外は乗せへん」 当時の川田は20代前半。師のいきなりの叱責には、さぞ面食らったことだろう。が、ここで川田は立ち止まり、そして自分のそれまでの騎乗を顧みた。
「自分の何がいけないんだろう、なぜ怒られたんだろう、いったいどう乗ったらいいんだろう…と、あのときは本当にいろいろ考えました。そこで気づいたのが、松田厩舎の馬はゆっくり動くように作られているのに、“今の自分にはオンとオフしかない”ということ。なにしろ直線に向いた瞬間、遮二無二追っていた時代でしたからね。その先生の言葉をきっかけに、馬をトップスピードに乗せるまでの過程を大事にするようになり、その結果、今の僕があると思っています。
『お前はうちの馬には乗せられない』というところから始まり、引退間際はほぼすべての馬に乗せてくださるまでになった。だからといって、先生に認められたなんて思っていません。最後に『将雅でいいや』と思っていただけたんだとしたら、僕はそれで十分満足です。
よく、経験を“財産”という言葉で表現しますが、僕にとって松田厩舎での数年間は、文字通り“財産”です。解散が迫った数年の、スタッフが一丸となって目標に向かう姿を見て、競馬に対する認識が少し変わりました。そういった貴重な時期に深く関わらせていただいたことは、ジョッキーとしても人間としても、本当に大きな経験になったと思っています」▲2016年小倉大賞典の表彰式、松田博資厩舎最後の重賞タイトルは川田の手綱で勝ち獲った (C)netkeiba.com
(文中敬称略、後編へつづく)