12月15日、木曜日の衆議院本会議で「特定複合観光施設区域の整備の推進に関する法律案」(IR推進法)が成立した。いわゆる「カジノ解禁法」である。
こうして「いわゆる」と付記しなければならないほど、主要メディアでは「カジノ解禁法」だとか「カジノ法案」という呼称が使われている。
とりあえず与党のやることには反対しておこうという安易な考え方のほかに、凝り固まった悪意のようなものが感じられる。また、反対意見に必ずついて回るのが「ギャンブル依存症対策が課題」という声だ。そう繰り返す人にとっては「ギャンブル=悪いこと」なのだろう。酒を飲んで暴力をふるう人がいるから酒は悪いものなのか、事故で人の命を奪うこともあるからクルマは悪いものなのか、という議論と私は同じだと思うのだが、ギャンブルをしない人にとっては違うらしい。
この法案が成立したからといってすぐにカジノができるわけではないのだが、今からカジノ周辺の風紀や治安が悪くなることを心配したり、ギャンブル依存症患者をどう治療すべきかを論じようとしたりする人が多い。いや、そうさせようと煽るメディアが不思議なほど多い。
何か、自分のことを心配されているというか、悪く言われているように感じている競馬ファンは私だけではないはずだ。
16日付の読売新聞の「カジノ解禁法成立」の特別面にある、精神科医・蒲生裕司氏のコメントによると、ギャンブル依存症は「本業や人間関係を顧みず、日常生活の中でギャンブルを最優先し、歯止めがきかない状態」だという。蒲生氏が「どこまで病気として扱うべきか」としているように、これは病気というより、人間性の問題ではないか。と言うと言葉がやさしすぎる。一事が万事で、このようなギャンブル依存症と定義される人間は、ギャンブルに限らずすべてにおいてだらしのない、ただのダメなやつ、と見るのが普通の感覚だろう。昔から、こういう人間につける薬はないと言われている。ギャンブル依存症を治療する病院が少ないことも問題視されているようだが、それを治せる医師がいるなら私も診てもらいたいぐらいだ。
私は、蒲生氏のコメントを見るまで、自分もギャンブル依存症だと思っていた。30年近く毎週馬券を買いつづけ、トータルで(きちんと計算したことはないが)クルマ数台ぶんはスッてきたと思う。だが、その間、著述業をつづけてきた私は、競馬について書くことによっても収入を得てきたので、感覚としては必要経費だ。文字どおり、必要だったのだ(これだとまるで「おれは依存症だ」と言っているようなものだな)。
私も、借金をしてまで馬券を買い、いわゆる多重債務者だった時期もあったが、どうにか脱出した。もちろん依存症を治す病院に通ったわけではなく、単純な算数の問題で、マイナス以上に稼ごうと頑張っただけだ。それを「馬券で稼ごう」と思うと依存症なのだろうが、私は書いて稼ごうと考えた。
厚生労働省研究班の調査によると、全国で536万人がギャンブル依存症の疑いがあるらしく、私はおそらく今でもそのひとりにカウントされるだろう。
依存症の問題とリンクしているのは、「カジノは敗者の犠牲のうえに成り立つもの」と言う人が多いことだ。
そういう人たちから見ると、私は敗者にほかならないだろう。
確かに金銭面のプラスマイナスでは私は敗者だ。
しかし、だからといって、私は自分が競馬に負けたとか、競馬をしない人に負けたとか、ギャンブルをしたことによって人生の敗者になったと思ったことは一度もない。
競馬をしたことによって得たものはここに書き切れないほどたくさんある。名馬の走りに心を動かされ、一流騎手の言葉に頷き、さまざまな情報を集めて数分後の未来を予測し、その証拠としていくらかの金を賭けてドキドキする……という作業は、自分を豊かにする営みにほかならなかったし、これからもそうありつづける。
カジノは国の品格にかかわる、といった発言をした人もいるようだが、それはカジノのある他国を貶めるばかりか、直接・間接的にギャンブルの担い手となる人々――勝つために技術を磨きつづける厩舎関係者や、強い馬をつくるため日々汗を流している生産者までも愚弄するに等しいと気づいているのだろうか。そうした発言をする人間は論外として無視したい。
反対派の論調は、まるで日本で初めてギャンブルが行われるかのようでもある。
居留外国人を中心に運営されていた横浜の根岸競馬場では、1888(明治21)年から治外法権的に馬券が売られていた。
日本人による馬券発売をともなう洋式競馬は、1906(明治39)年11月、東京競馬会が主催者となって池上競馬場で行われ、4日間とも大盛況だった。翌月、政府は、馬匹改良上有益と認める競馬会には馬券の発売を黙許する措置を講じた。それにより、翌明治40年には日本中に類似の競馬会が誕生し、日本に初めての競馬ブームが到来した。ところが、主催者による不正や、客による騒擾事件が相次ぎ、借金で家を傾ける者が続出するなど社会問題となり、明治41年10月に馬券発売が禁止された。以降、競馬関係者は、「日本競馬の父」安田伊左衛門の尽力で競馬法が制定され、再度馬券が売られるようになる1923(大正12)年まで、15年もの長きにわたり、財政難のなかで苦闘をつづけた。
ほぼ一世紀のときを経た今、中央競馬の年間売上げは2兆5833億9186万9800円(2015年)にまでなり、競馬場やウインズの入場人員に電話やネット投票の利用者を加えた年間の総参加人員は、延べ1億6500万人を超えている。
中央競馬だけでもこれだけの金と人が動いているわけで、公営ギャンブルとしてはほかにも地方競馬、競輪、競艇、オートレースがある。
さらに、実質的にはギャンブルであるパチンコの昨年の売上げは、レジャー白書によると23兆2290億円にも達するという。
ここにカジノが加わるとどうなるか。
現在、日本人が遣っている30兆円ほどのギャンブル代が、カジノができれば40兆円や50兆円になるだろうか。その日が来てみないとわからないが、おそらく、トータルでは微増で、既存のパイの食い合いになるだけだろう。
心配すべきは、顧客のギャンブル依存症より主催者ではないか。2013年に閉場したハリウッドパーク競馬場の例を持ち出すまでもないだろうが、依存症ではないギャンブラーが遣えるワクワクドキドキ代には限度がある。
東京にカジノができたら、私は間違いなく行く。行くと決めたらスーツやネクタイを新調するかもしれない。消費増大に貢献する。が、もしカジノで10万円負けたら、週末、競馬場でその負けを取り返そうとはせず、馬券代を少なくするような気がする。そのつもりで競馬場に行ったのに、パドックや返し馬を見ると、何かすごいことが起きそうな気がしてきて、つい、いつもどおりに買ってしまう――という競馬を見たい。それでまた負けたとしても、繰り返しになるが、自分が自分であることを保つための必要経費だ。
月並みな結論になってしまうが、より魅力的で、カジノ以上にワクワクドキドキできる競馬を見せてほしいと思う。