宝塚記念の日、阪神競馬場のコースに面した関係者席を歩いていると、不意に名を呼ばれた。
立ち上がってこちらを見ていたのは、ドラマ『絆〜走れ奇跡の子馬〜』で松下拓馬を演じた岡田将生さんのような男前だった。
松田大作騎手である。スーツ姿でネクタイをしていたので、一瞬、誰だかわからなかった。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
硬い口調でそう言った彼と話すのは久しぶりだった。
彼は、2月に道路交通法を違反(免許停止中の無免許運転および速度超過)し、罰金刑に処されたため、半年間の騎乗停止処分を受けることになった。
「復帰はいつからですか」
私が訊くと、彼は「8月からです。心を入れ替えて、一からやり直します」と応えた。
「調教には乗っているんですよね」
「はい。こうしてスタンドから競馬を見ることもなかったので、勉強しています。応援してくださる方もいて、ありがたいです」
私が知っていた、底抜けに明るい「松田君」とは、顔つきが変わっていた。
たくさんの人にいろいろなことを言われ、すべてを受け入れるしかなかった日々が、彼を変えたのだろう。
武幸四郎調教師、秋山真一郎騎手らと同期の38歳。
いつのまにか、初めて会ったときの私の年齢を追い越している。
私が松田騎手と初めて会ったのは、2000年の暮れ、彼が、先輩の武豊騎手と、当時騎手だった鹿戸雄一調教師、千田輝彦調教師、そして後輩の池添謙一騎手と一緒に、アメリカ西海岸のサンタアニタパーク競馬場に遠征したときだった。
松田騎手はデビュー4年目の22歳。日本馬と一緒に渡米したわけではない。騎手にとって「世界一の激戦区」と言われていた西海岸の競馬を見て学び、さらに、調教や、あわよくば、レースでの騎乗馬を得て、スキルを高めるために自費で海を渡ったのだ。
彼がいると、その場がにぎやかになり、退屈しなかった。
調教終了後、レストランで朝食をとっていたときのことだった。体重が増えないようにしていた鹿戸師が食べ終わり、武騎手との話に気をとられて横を向いた隙に、松田騎手は、師の皿にそっとおかずを置いた。そして、私に「黙っていて」と目で合図する。それを鹿戸師が無意識に口に運ぼうとするかどうかを試すイタズラである。
食べたはずのおかずに気づいて、数瞬考え込むようにした鹿戸師の表情には、申し訳ないと思いながらも笑ってしまった。
あれから17年。いろいろなことが変わったり、そのままだったりと、面白い。
武騎手は翌年からフランスに騎乗ベースを移した。その後、不可能と言われていた年間200勝を突破したり、ディープインパクトで無敗のまま三冠を制すなどした。2010年春の落馬負傷をきっかけに勝ち鞍が伸び悩んだ時期もあったが、キズナやキタサンブラックなどの名馬とともに大舞台に立ち、「武豊」だけの輝きをとり戻した。
鹿戸師と千田師は調教師になった。鹿戸師は、管理馬スクリーンヒーローで2008年のジャパンカップを制し、GIトレーナーとなった。
池添騎手は、オルフェーヴルの背で三冠ジョッキーとなった。
そして、松田騎手は――。
2015年3月21日、14番人気のタガノアザガルでファルコンステークスを勝ち、デビュー19年目にして重賞初制覇を果たした。タガノアザガルを管理していたのは、開業5年目の千田調教師だった。彼にとっても、これが調教師として初めての重賞制覇だった――。
私なども日々感じていることだが、いいときだけ近づいてくる人もいれば、どんなときでも応援してくれる人もいる。
だからといって、悪いときに離れて行った人を恨むのではなく、応援してもらえるような存在になれない自分がいけないのだ、と自身を叱咤して頑張るしかない。
人気商売とはそういうものだ。
騎手と作家は、技術屋であり、人気商売でもあるという点で同じだと思う。
技術がないといい結果を出せない。しかし、その前に、たくさんの依頼が来る人気がなければならない。いくら高い技術を持っていても、それを発揮する場がなければ、技術がないのと同じことだ。であるから、必ずしもトップクラスの技術を持っているわけではないのに売れっ子になっている人もいれば、腕はいいのに売れない人もいる。
今、松田騎手を支えているのは、どんなときでも応援してくれる人たちだろう。
その人たちを、逆に支えることのできる騎手になるよう、結果を出してほしい。彼なら、技術も人気もある、本当に力のある騎手になれる。
スケジュールが合えば、彼の復帰戦を見に行きたい。