この稿を別のテーマで書いていたとき、作家・競馬評論家の山野浩一さんが亡くなったことを知った。
山野さんは、夫人の介護をしているうちに癌を患い、ここ数か月、入退院を繰り返していた。ブログなどで癌であることを公表し、自身の病状や気持ちの動き、抗癌剤治療の詳細などを淡々と記していた。
7月14日付のブログに、脳腫瘍が見つかり、病室にないはずの花々が見えて、「認知症が進めばもう経済活動も文化活動も何もできず、本当に死を待つだけのものになってしまう」と書いている。さらに、「たぶん次に病院に戻るときにはしっかり終末を迎えることができると思う。最も望んでいた末期で幸運だ」とつづけ、「とりあえずみなさまサヨウナラ」と締めくくっている。
それが私たちに向けた最後の言葉となった。
7月20日、食道癌で逝去。77歳だった。
またひとり、偉大な先達を失ってしまった。
山野浩一さんは、1939年11月27日、大阪市港区で生まれた。
関西学院大学在学中に競馬場に通うようになり、映画研究部で制作した映画がテレビで放映されたとき、4歳上の寺山修司(1935-1983)と知り合った。
その寺山から「小説か戯曲を書いたらどうだ」と勧められ、1964年に戯曲「受付の靴下」と小説「x電車で行こう」を書き上げた。同人誌に掲載された「x電車で行こう」は、三島由紀夫、小林信彦らに激賞されて「SFマガジン」に転載され、華々しい作家デビューを果たした。
翌1965年ごろから「優駿」に寄稿するようになり、68年には競馬関係の著作としては処女作となる『競馬パズル』を上梓。このころから「東京スポーツ」で血統を紹介するコラムを書くようになっていた。
1970年代に入ると『名馬の血統』を数年ごとに改訂しながら出すなど、血統評論家の走りとして知られるようになる。
日本で最初のフリーハンデの作成にも携わり、「競馬ブック」誌上で発表しつづけた。1980年代後半から競馬を始めた私のようなファンにとっては、のちにJPNクラシフィケーションが始まるまで、日本の競走馬の能力を示すただひとつの公式レーティングでありつづけた。
フジテレビの競馬中継にゲスト出演するようになったり、『名馬の血統』を引き継ぐ形で『サラブレッド血統事典』を数年ごとに改訂しながら出すようになった。私の手元にある『サラブレッド血統事典』の奥付を見ると、1989年3月発行だ。執筆や予想の資料として、大いに活用させてもらった。
1990年には『サラブレッドの誕生』でJRA賞馬事文化賞を受賞。
競馬評論家としても、作家としても高いステイタスを確立していた山野さんは、1990年代になると、競馬関連の執筆・評論活動に軸足を移していく――。
私が「山野浩一」という名を初めて見たのは「競馬ブック」誌上で、血統評論家として、であった。その後、寺山修司の競馬エッセイのファンになった私は、寺山を初めて競馬場に連れて行ったのは山野さんだったと知って驚いた。と同時に、私のなかで山野さんの「すごい人度」が一気に上昇し、以降、誰かに山野さんについて説明するときは、「寺山修司を競馬場に連れて行った人」と言うようになった。
初めてお会いし、ご挨拶したのは、1990年代初めの「東京中日スポーツ」レース課主催の宴席だった。そのときも、私は山野さんを血統評論家としてのみ認識していた。競馬関連であれだけの実績を残している人が、ほかの分野でさらに何かをなしているなど、想像もしなかった。
山野さんの作家としての実績について詳しく知ったのは、私がグリーンチャンネルの寺山修司没後30年特番のナビゲーターとして、山野さんにインタビューすることになった2013年夏のことだった。
話を聞く前に読んでおかなくては失礼だと思い、2011年に出版された傑作選『鳥はいまどこを飛ぶか』と『殺人者の空』を入手した。文芸の世界でもこれほど素晴らしい仕事をされていたことに畏敬の念を抱いた。かつて出した単行本には、安部公房や星新一といった、教科書に名前が載るほどの大作家から推薦文をもらっていたという。
――山野さんは、文芸の世界でそこまで築き上げたものから離れ、競馬の世界に足を踏み入れたことに関してどう考えているのだろう。
そんな思いを胸に、話を聞いた。セミの声だけが響く平日の東京競馬場に、山野さんはリュックを背負って現れた。
「それにしても、島田さんはずいぶん遅れて現れましたね」
カメラが回る前、山野さんがそう言った。
おそらく、若いころから人気騎手のインタビューなど、目立つものをたくさん書きながら進歩せずに来た私が、その2年前、『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』で馬事文化賞を受賞したことに関し、「ようやく、競馬界の深い奥行きに手が届くものを書くようになりましたね」と言いたかったのだろう。
インタビューで、私は、競馬を文芸の域まで引き上げ、融合させた寺山の功績についてどう思うかと訊ねた。それに対する山野さんの答えがかっこよかった。
「いやあ、文芸より競馬のほうがずっと上だから」
言葉に説得力を持たせてそう言えるのは、文壇でも名声を得ていた山野さんだけだった。文壇から競馬界に移ったことに関して、私が抱えていた質問は、山野さんにとっては愚問だったのだ。
もっと山野さんの小説を読みたかったのだが、「自分に書けるものは書き尽くした」と、新作を書こうとはしなかった。
この稿を書くにあたり、山野さんの公式サイトのプロフィールを見て、私がライターデビューした男性誌「GORO」に、私より20年ほど前に寄稿していたことを知った。
私にとって、文字どおり、あとを追いかけるべき「先達」だった。
残念だ、損失だ、とばかり繰り返しても、天国の山野さんは喜ばないだろう。
私も、自分が死んだとき、こうして追悼文を書いてくれる後進が現れるよう頑張りたい。
山野さん、ありがとうございました。