横綱日馬富士が暴行事件の責任をとって引退することになった。19年ぶりに日本人横綱となった稀勢の里が注目されるなど、相撲人気が復活しかけていただけに残念だ。
暴行事件に関して、11月場所で優勝した横綱白鵬が、千秋楽の優勝力士インタビューで、日馬富士と貴ノ岩を再び土俵に上げたいと話した。その発言に違和感を覚えた人は多かっただろう。
問題を起こした力士の処遇を決めるのは相撲協会であって、横綱にその権限はない。絶対王者になったら自然と発言力が増す、ほかのスポーツと同じ感覚になっているのか。
相撲は、フィジカルなパフォーマンスの優劣を競うという意味では確かにスポーツだが、本来は神事であり、それを継続させるために興行として行われてきた。そもそも主催者が取り組みを決められるという時点で、抽選で相手を決める高校野球やサッカーW杯などとは性質が大きく異なる。
また、国技として認識されている大相撲における番付は、英訳すると「ランキング(ranking)」ということになるのだが、これもサッカーのFIFAランキングや競馬のレーティングなどとは、決定方法も存在意義もまるで違っている。
番付というのは、ただの順位ではない。何より、一度横綱になったら、引退するまで降格しないというところが、ほかの競技のチャンピオンとは異なっている。言わずもがなだが、横綱は、それだけ責任が重く、求められるものが多いということだ。責任や品格などを一方的に求められるだけで、何かを他者に求めることはない。そうしてすべてを受け入れる大人物こそ、私たち日本人が求める横綱像なのだ。つまり、大相撲の番付は、たんなる順位ではなく地位であり、番付が上になるほど地位としての意味合いが強くなる。
相撲も競馬もタニマチがいなければ成り立たない興行という点で共通している。
タニマチ、競馬の場合は馬主と、ファンが、異なる立場から興行としての競馬を支え、現在の隆盛を迎えた。競馬は、野球やサッカーのリーグがない国でも行われているほどの世界的な競技であり、馬主とファンによる興行の支え方は、国によって当然異なる。
JRAにとっての「お客様」というと、ファンを指すのが普通だ。しかし、ヨーロッパの主催者に、「あなたにとってのお客様は誰ですか」と質問したら、どう答えるだろう。日本と同じように「ファンです」と言う人ばかりでなく、「オーナーです」と答える人もいるのではないか。
ひとりの大オーナーに馬を引き上げられたら、レースが成立しないぐらい頭数が少なくなり、レーティングもガクッと落ちるような状況なら、主催者は馬主の顔色をうかがいながらの運営になるだろう。
日本のように、競馬が馬券の売上げによって支えられていれば、主催者は主にファンに目を向けながら運営することになる。
日馬富士の引退会見をテレビでちらっと見た。個人的には、潔いと感じたし、正直、気の毒な部分もあると思うが、横綱なのだから、この結末しかなかった。せめて素手だけで、殴るのを2、3発にしておけば違ったのではないか、という程度問題ではないのも、日馬富士が横綱だったからだ。
横綱というのは、相撲界に入った全員が目指し、憧れる存在であり、外の人間から見ると「相撲界の顔」そのものである。前述したように、一方的に厳格な「横綱らしさ」を求められる。私などは、横綱が頭をつける相撲をしたり、張り差しをするだけで顔をしかめてしまう。その意味ではつらい地位でもあるのだが、横綱自身が欲して手にした地位であるから、すべてを受け入れるしかない。
それに対し、私もたまにやるのだが、強い馬が好位差しの競馬で勝つと「横綱相撲」と表現する。また、競走馬を「横綱」にたとえて書くこともある。すると、「横綱」という言葉の重みが、馬のイメージにも投影されてしまい、その馬に「横綱らしさ」を求めてしまう(自分で望んだわけではない馬にとっては迷惑だろうが)。
今の日本の競馬界で横綱と言えば、やはりキタサンブラックだろう。ジャパンカップでキタサンブラックは、他馬の目標になることを厭わず、あえて受けて立つ競馬をした。その意味でも、立派な3着だったと思う。
次走の有馬記念がラストランとなる。いつも競馬場には楽しみに行くのだが、今年の有馬記念は、どう表現したらいいのだろう。ともかく、キタサンブラックの走りを目に焼き付けるために行きたい。