▲ netkeiba Books+ から「有馬記念で振り返る競馬ブーム(上)」の1章、2章をお届けいたします。(写真:報知新聞/アフロ)
ファン投票によって出走馬を選出するドリーム・レース「有馬記念」。その長い歴史の中で最多得票数を得たのは稀代のアイドルホース・オグリキャップ。「ダビスタ」「マキバオー」により競馬ファンが増加した90年代半ばには有馬記念売得金額のピークを迎えるなど、有馬記念の歴史は競馬ブームの流れと大きく一致する。ここでは「有馬記念」を軸に「競馬ブーム」を振り返る。(文:片山 喜康)
第1章 プロローグ 有馬記念の沿革と歴史
有馬記念 G1(国際競走)
レースレコード:2分29秒5 ゼンノロブロイ(第49回)
コース:中山競馬場 芝内回り 2500m
負担重量:3歳 55kg 4歳以上 57kg(牝馬2kg減)
1着賞金:3億円(2017年現在)
名物理事長の発案で、ファン投票による競馬のオールスター戦がスタート 中央競馬のレース名の中で、固有名詞が冠されているものは多い。名馬の名を冠したセントライト記念、シンザン記念や、共同通信杯の副称であるトキノミノル記念。また、かつて競馬場があった地名に因んだものには目黒記念や鳴尾記念、根岸ステークスなどがあるが、人名を冠したものは3つしかない。
まずはスポーツ全般にご理解が深く、1970年に優勝杯を下賜されてからは毎年レースを観戦し、自ら優勝杯も授与されてきた高松宮宣仁親王殿下(たかまつのみやのぶひとしんのうでんか)の名を冠した高松宮記念。さらに戦前から長きにわたってわが国の競馬の発展に尽力し、日本中央競馬会の初代理事長も務めた安田伊左衛門(やすだいざえもん)の功績を讃えた安田記念。そして残るもう1つがこの有馬記念である。
太平洋戦争後、GHQの統治下にあったわが国では、競馬も農林省畜産局競馬部による国営競馬として開催されていた。1951年のサンフランシスコ平和条約の調印により、ようやく主権が回復されると競馬民営化論が活発となり、1954年に日本中央競馬会が発足し、農林省の監督のもと競馬が運営されるようになった。翌1955年、初代安田理事長の後を受けて2代目理事長に就任したのが、元農林大臣の有馬頼寧(ありまよりやす)であった。
発足間もない日本中央競馬会が直面していた最初の課題は、戦争で中断している間に荒廃してしまった施設の改修だった。中でも老朽化が進んだ中山競馬場の大スタンドは危険な状態にあったが、当時の財政状態では大規模な改修を行う費用を捻出することは困難であった。
そこで有馬新理事長は競馬に理解のある、時の農林大臣河野一郎(元・外相河野洋平の父、現・外相河野太郎の祖父で、菊花賞馬ナスノコトブキ、桜花賞馬ナスノカオリ、オークス馬ナスノチグサなどを生産した那須野牧場のオーナーブリーダー)をはじめとする政府関係者に働きかけ、1960年末までのむこう5年間、「日本中央競馬会は臨時の競馬開催による収益を建造物の改築に充て、収益の一部を国庫に納付する義務も負わない」という旨の特例法、世に言う「有馬特例法」の成立にこぎ着けた。
アイデアマンだった有馬理事長が次に考えたのは、プロ野球のオールスター戦に倣い、「ファン投票で選ばれた馬による、世代を超えた真のチャンピオン決定戦」を、それもダービー、天皇賞などが行われる府中に較べ、大レースの少ない中山で行うという、これまでにない画期的なものだった。それは、かつてプロ野球チーム「東京セネタース」のオーナーを務めた経験のある有馬理事長ならではのアイデアと言えよう。
有馬頼寧氏 写真:日刊スポーツ/アフロ
1956年12月23日、第1回「中山グランプリ」レース(第1〜10回までは芝2600mで施行)は、新築なったスタンドに約2万8千人のファンを集めて開催された。記念すべき第1回の「競馬のオールスター戦」は皐月賞馬ヘキラク、ダービー馬ハクチカラ、菊花賞馬キタノオー、オークス馬フェアマンナ、そして、メイヂヒカリ、ミッドファーム、ダイナナホウシュウの3頭の天皇賞馬など、3歳から6歳までの各世代を代表する実力馬12頭によって争われ、1番人気のメイヂヒカリが2分43秒2のレコードで、2着キタノオーに3馬身半の差をつけて快勝した。
メイヂヒカリは北海道三石、大塚牧場の生産馬で、父クモハタ、母シラハタ、母の父プリメロという血統で、その牝系は多くの名馬を出した小岩井農場の名牝ビューチフルドリーマーに至る。1954年の朝日杯3歳Sを勝ち、クラシック候補と期待されていたメイヂヒカリだったが、故障で皐月賞、ダービーには出走できず、菊花賞でその無念を晴らし、1956年の春の天皇賞にも勝ち、さらに有馬記念の勝利で名実共にチャンピオンホースとなった。
勝利騎手は蛯名武五郎、調教師は藤本冨良、馬主の新田新作は明治座のオーナーで、相撲を愛し、プロレスの力道山の後援者としても知られる、昔気質の興行師といった、豪放な人物であったが、このレースの半年前に亡くなっていた。葬儀にはメイヂヒカリも参列し、何時間もじっと立っていたというエピソードは新聞にも取り上げられ話題になった。このレースは陣営にとっては、いわば「弔い合戦」だったのである。
第1回を制したメイヂヒカリ 写真:日刊スポーツ/アフロ
ところが、この記念すべき第1回中山グランプリからわずか17日後の1957年1月9日、今度は有馬理事長が急性肺炎により亡くなってしまった。2年にも満たない短い在任期間であったが、わが国の競馬界に大きな功績を残した有馬頼寧理事長を称え、その名を長く残すためにこの年からレース名は「有馬記念」と改められたのである。
「有馬記念」と改称された第2回からシンザンが勝った1965年の第10回までは、施行コースは芝2600m外回り(第4回は内回り)で行われていたが、第11回からは現在と同じ芝2500m(内回り)に変更された。
シンザンの勝った第10回はあらためて取り上げるとして、ここで2600mで行われていた、今からちょうど60年前の1957年に行われた第2回から、東京オリンピックが開催された1964年の第9回までのレースを振り返ってみることにしよう。
1950年代後半から1960年代前半といえば、わが国が戦後の荒廃から驚異的なスピードで立ち直り、急速な発展を遂げた高度成長期にあたる。経済の発展に伴い、池田勇人首相の「所得倍増計画」による個人所得の増加は、馬券の売り上げにも大きく影響した。その総額は第1回の81,248,400円から、第9回には501,538,600円と、8年間で約6倍以上にはね上がった。
その間の勝馬は下記の通り、懐かしい名前が並ぶ。
2回(1957年):ハクチカラ
3回(1958年):オンワードゼア
4回(1959年):ガーネット
5回(1960年):スターロッチ
6回(1961年):ホマレボシ
7回(1962年):オンスロート
8回(1963年):リュウフォーレル
9回(1964年):ヤマトキョウダイ
第2回のハクチカラは有馬記念に勝った後にアメリカへ遠征し、後にシンボリルドルフも走ったカリフォルニアのサンタアニタ競馬場で1959年2月23日に行われたワシントン・バースデイ・ハンデ(芝2400m)に出走し、遠征11戦目の7歳にして、当時の世界最高賞金を獲得していたあの名馬ラウンドテーブル以下を敗り、日本産馬として初めて海外のステークス(重賞レース)を勝つという大記録を打ち立てた。引退後は種牡馬としてインドに寄贈されたハクチカラは1979年に26歳で偉大な生涯を全うした。
第3回に4馬身差という大差勝ちしたオンワードゼアもアメリカへの海外遠征後に帰国し、種牡馬になった後、現役に復帰し道営競馬で5戦2勝したという数奇な運命をたどった名馬である。
不良馬場で行われた第4回は9番人気のガーネットが、馬場の良い大外を回った伊藤竹男騎手の好判断もあって、前走の天皇賞・秋(当時は東京芝3200m)に続き、史上初の牝馬による有馬記念制覇を果たした。
発走が昔ながらのバリヤー方式から現在のゲート方式に変わった第5回も、前年に続き同じ9番人気の人気薄、それもその年に優駿牝馬(オークス)を勝ったばかりのスターロッチが優勝した。62年に及ぶ長い有馬記念の歴史の中で、3歳牝馬による制覇はスターロッチただ1頭である。
第6回は1着から5着までが0.2秒差という大接戦を、2分40秒8のレコードで1番人気の4歳牡馬ホマレボシが制した。テン乗りの高松三太騎手は内から抜け出す好騎乗で、前年のスターロッチに続き、史上初の有馬記念連覇を成し遂げた。
1962年の第7回には前年の2着馬で公営南関東出身のタカマガハラが再び挑戦してきた。しかし、その悲願を阻んだのは同じ公営競馬出身で、その後を追うように中央競馬に転厩してきたライバルのオンスロートで、タカマガハラはまたしても2着に敗れた。有馬記念が指定交流競走となり、地方競馬所属馬の出走が可能になったのは1995年の第40回からである。
翌年の第8回は皐月賞とダービーを制したメイズイとその三冠を阻んだグレートヨルカの名門尾形厩舎が誇る2頭の3歳馬の出走が話題を呼んだが、勝ったのは秋の天皇賞勝ちの勢いに乗った4歳牡馬リュウフォーレルで、関西馬として初戴冠の栄誉に輝いた。
日本中が東京オリンピックに沸いた1964年の第9回有馬記念は、前年のリュウフォーレルに続いて、同じヒンドスタン産駒のヤマトキョウダイが目黒記念、天皇賞・秋から3連勝でこの年を締めくくった。世界的な大オーナーブリーダーのアーガー・ハーン3世殿下が生産したヒンドスタンは、7回リーディングサイアーとなり、1960年代のわが国の生産界に君臨した名種牡馬であった。そして、翌1965年の第10回、その最高傑作であるシンザンが有馬記念を勝ち五冠馬となり、ヒンドスタン産駒の3年連続制覇という快挙を成し遂げるのである。
1956年の第1回から60年余、有馬記念は今や年末の風物詩として定着して、競馬ファンのみならず、日本国民に広く親しまれる大レースとなった。勝馬投票券の売り上げも1996年には世界の競馬史上最高額の875億円を記録し、ギネス世界記録にも認定されたのである。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ から「有馬記念で振り返る競馬ブーム(上)」の1章、2章をお届けいたします。(写真:日刊スポーツ/アフロ)
第2章 「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その1
加賀騎乗のミハルカス執念の奇襲をもろともせず、王者シンザン堂々の横綱相撲で史上初の五冠馬と成る ずいぶんと長い間、「シンザンを超えろ!」が競馬の世界に生きる全ての人々のスローガンとなっていた時代があった。
シンザンを超えるような強い馬を生産者は生産したいと汗を流し、調教師はそんな馬を見出し、育てるために馬産地を見て回り、騎手はその背にまたがることを夢見て、馬主は熱心にセリ市へと足を運んだのである。そして、競馬ファンの誰もがシンザンのような強い馬の勝つレースを見たいと願い、JRAもそんな馬の出現を強く望んでいた。
それだけ、シンザンの強さ、偉大さは競馬を知る全ての人が認めるところだったのである。
引退後、自身の銅像除幕式に現れたシンザン 写真:読売新聞/アフロ
1964年、セントライト以来23年振りの三冠馬となったシンザンは菊花賞後の疲労が抜け切らず、早々と暮れの有馬記念出走回避を表明したが、ファン投票では第3位に選ばれた。
明け4歳の1965年1月、中尾謙太郎厩務員(後に厩務員出身初の中央競馬調教師となり、1996年桜花賞馬ファイトガリバーなどを管理)は、調教後のシンザンの右後肢の爪が出血しているのを発見した。原因は後肢の脚力が増し、踏み込みが深くなり、前肢の蹄鉄が後肢の爪に当たってしまうためだった。武田文吾調教師は福田忠寛装蹄師の協力のもと、試行錯誤の末、後肢の蹄鉄にスリッパのようなカバーを取り付けて爪を保護し、さらに前肢の蹄鉄をカバーの当たる衝撃から守るため、電気溶接でT字型のブリッジを補強した、後に「シンザン鉄」と呼ばれる独自の蹄鉄を考案した。この蹄鉄は通常のものに比べ2倍以上の重さであったため、脚部に負担がかかり、故障を招く恐れもあったが、シンザンはこれを見事に克服した。
「シンザン鉄」のお陰で蹄の炎症は解消されたが、調教の遅れからローテーションは変更され、1965年春の天皇賞を回避して、ファン投票第1位の宝塚記念の勝利後、シンザンは秋まで休養することになった。
順調に夏を過ごしたシンザンは秋の最初の目標、天皇賞(東京芝3200m)へ向けて、初戦となった10月2日の阪神のオープン戦を快勝した。当初、武田調教師はシンザンを府中へ輸送し、オープン戦を叩いて本番というローテーションを描いていた。ところが、折悪しくインフルエンザが発生して競走馬の移動禁止令が出され、その解除を待つうちに出走予定のオープン戦が行われてしまったのである。
やむなく武田調教師は63kgという重い斤量を背負う11月3日の目黒記念(東京芝2500m)に出走させたが、その心配をよそに4コーナーで先頭に立ったシンザンはブルタカチホ以下を退けて優勝し、続く本番の天皇賞でも、単勝支持率78.3%、単勝・複勝配当100円の元返しという圧倒的な人気に応え、2 着ハクズイコウに2馬身の差をつけ快勝した。
武田調教師は次の目標である有馬記念前に、中山コース未経験のシンザンのスクーリングと天皇賞からの間隔が空き過ぎないように12月18日の中山のオープン戦を使い、連闘での有馬記念出走を決めた。しかし、これに主戦の栗田勝騎手が強く反対した。二人の間に確執が生じたまま、シンザンへの負担を軽くするため武田調教師はオープン戦に、斤量の軽い当時見習い騎手だった息子の武田博騎手を乗せた。しかし、シンザンは伸び切れず、格下のクリデイの2着に敗れたことから、栗田騎手は落胆し、泥酔して病院に搬送されるという事件を起こしてしまったのである。これに激怒した武田調教師は、本番の有馬記念では栗田騎手ではなく、同厩の松本善登騎手(1979年カツラノハイセイコで日本ダービー制覇)の騎乗を発表した。
そんな不穏な雰囲気の中で迎えた第10回有馬記念、レースはファン投票第1位、単勝オッズは1.1倍という圧倒的な1番人気のシンザン対他7頭という様相を呈していた。
荒れた稍重馬場の4コーナー、早くも前年の覇者ヤマトキョウダイを交わしたシンザンは、果敢に逃げる加賀武見騎手のミハルカスに並びかけた。すると加賀騎手はシンザンに馬場の悪いインコースを走らせようと、わざと外にふくらみ、外ラチにかなり近い進路を取った。反則ぎりぎりの作戦である。しかし、初騎乗の松本騎手は躊躇することなく、そのさらに外のラチ沿いのコースを選んだ。この時、テレビカメラの視界から一瞬シンザンの姿が見えなくなり、アナウンサーの実況も途絶えた。そして、再びカメラが大外からミハルカスを交わしたシンザンの雄姿をとらえ、「シンザン先頭!」とアナウンサーが叫んだところがゴールだった。
レース後、松本騎手は「シンザンが外を回れと言った! 相手は加賀の馬だけだと思いながら乗った。4コーナーで外に振られたが、内に持ち直す必要はない。並べばこっちが強いと信じていた」と語った。
第10回有馬記念 右から1着松本善登騎手のシンザン、2着ミハルカス、3着ブルタカチホ 写真:日刊スポーツ/アフロ
わが国初の「五冠馬」となったシンザンは、府中、京都で引退式を行い、浦河の谷川牧場で種牡馬となった。種牡馬としての人気も上々で、1978年の5位(地方競馬を含めると3位)を最高に、合計7回種牡馬ランキングのトップ10に入った。当初の産駒はスガノホマレ、シルバーランドといったスピード型の中距離馬が多く、なかなか大レースを勝つステイヤーが出てこなかったが、1981年にミナガワマンナが菊花賞を勝つと、1985年にはミホシンザンが皐月賞と菊花賞の二冠を制し、父の名を高めた。
ミホシンザンが春の天皇賞を勝って引退した1987年、26歳となったシンザンも種牡馬を引退した。805頭の産駒たちが残した成績は、総勝利数625勝、重賞勝利数49勝、G1級勝利数4勝という素晴らしいものであった。
種牡馬引退後のシンザンは谷川牧場で功労馬として繋養され、1996年7月13日、老衰のため35歳3ヶ月の生涯を終えた。当時の日本最高齢馬記録であった、これだけの長寿を全うできたのも、シンザンの持つ身体的、精神的な強靭さの証であろう。谷川牧場に建てられたシンザンの墓と銅像には、今も訪れるファンが絶えない。
■DATA
第10回 1965年12月26日(日)曇/稍重
勝馬:シンザン 牡4歳 鹿毛
斤量:56kg
タイム:2分47秒2(2600m) 1番人気
父:ヒンドスタン 母:ハヤノボリ(父:ハヤタケ)
騎手:松本善登
調教師:武田文吾
生産者:松橋吉松 北海道浦河町
馬主:橋元幸吉
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- 有馬記念で振り返る競馬ブーム(上)
- 第1章 プロローグ 有馬記念の沿革と歴史
- 第2章 「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その1
- 第3章 「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その2
- 第4章 1970年代、第一次競馬ブーム到来! その1
- 第5章 1970年代、第一次競馬ブーム到来! その2
- 第6章 三冠馬同士の激突、シンボリルドルフがジャパンCの無念を晴らす
- 第7章 第二次競馬ブームの幕開け その1
- 第8章 第二次競馬ブームの幕開け その2