▲09年京都金杯の勝ち馬タマモサポートの現在(写真提供:ゆり高原ホースパーク)
現役時と変わらない“我の強さ”
東西金杯が行われた1月6日、2009年の京都金杯に優勝したタマモサポートの取材をした。現在、秋田県由利本荘市にある、ゆり高原ホースパークに暮らしている同馬は明け15歳。東北秋田の冬空の下、放牧地で元気に過ごしているという。
「金杯の日に取材を受けるなんて、これも何かの縁かなと思いました」と、ゆり高原ホースパーク代表の佐藤哲さん。例年1月5日だった金杯が、今年は6日に行われた。金杯に合わせて取材日を決めたわけではなかったが、偶然その日に互いの都合がついたということに、新年早々、幸先良いスタートが切れたような気がして、晴れやかな気分になった。
▲タマモサポートが暮らすゆり高原ホースパーク(写真提供:ゆり高原ホースパーク)
タマモサポートは、2003年3月9日に、北海道新冠町の対馬正さんの牧場で生まれた。父はタマモクロス、母はアンサーミー、その父はジョリーズヘイローという血統だ。
タマモクロスの父シービークロスは、私が競馬と出会った1978年のクラシック戦線に名を連ねており、その後も重賞路線で活躍を続けた印象深い1頭だ。主戦騎手は吉永正人。常に1頭ポツンと離れた最後方から進み、直線で豪脚を披露するのがパターンで、その追い込み一辺倒のレース振りと芦毛の馬体から「白い稲妻」と異名を取り、ファンの多い馬でもあった。
79年の中山金杯で重賞初勝利を収め、その年の秋には毎日王冠、目黒記念(秋)とレコードタイムで連勝した。82年、繋靭帯炎のため日経賞を出走取消し、引退。重賞3勝を含む26戦7勝の成績を残した。
1970年代は輸入種牡馬に人気が集まり、内国産種牡馬は全体的に評価が低かった。シービークロスもその例に漏れず、繁殖牝馬を集めるのに苦労したと聞く。しかし、その産駒たちは優秀で、タマモサポートの父で88年の年度代表馬にも選出されたタマモクロスや、90年のセントライト記念や、91年の大阪杯などに優勝したホワイトストーンなど、数々の活躍馬を輩出している。
シービークロスの芦毛を受け継いだタマモクロスは、デビューが4歳(現3歳)3月と遅く、クラシックには出走していないが、その年の秋には頭角を現わし、400万下、藤森特別(400万下)と同条件をともに圧勝して2連勝を飾る。暮れの鳴尾記念(GII)に格上挑戦し、初めての重賞タイトルを手にしている。
そこからのタマモクロスは目を見張るほど強く、年が明けた1988年、京都金杯(GIII・当時「スポニチ賞金杯」)を皮切りに、阪神大賞典(GII)、天皇賞・春(GI)、宝塚記念(GI)、天皇賞・秋(GI)と勝ち続けた。しかし、ジャパンC(GI)ではアメリカのペイザバトラーの2着、その年の秋、3度目となった芦毛対決となった有馬記念ではオグリキャップの2着と敗れ、このレースを最後に現役を退いている。
タマモクロスもまた、マイソールサウンド、カネツクロス、ダンツシリウス、そして今回主役のタマモサポートなど、重賞勝ち馬を送り出し、父同様に種牡馬としても成功している。
タマモサポートの血統表を眺めるうちに、競馬に出会った1970年代が懐かしくなり、シービークロスまで遡って綴ってしまったが、父から子に、そしてそのまた子供たちに…と、競馬がブラッドスポーツだということを改めて認識したのだった。
祖父、父の血を受け継いで誕生したタマモサポートは、毛色は遺伝しなかったようで鹿毛であった。栗東の藤岡健一厩舎の管理馬になった同馬のデビューは2005年11月の京都競馬場。藤岡調教師の息子である藤岡佑介騎手が手綱を取り、見事初陣を飾っている。翌年2月につばき賞(500万下)で2勝目を挙げたが、続くスプリングS(GII)で4着、ダービートライアルの青葉賞(GII)では7着と、残念ながら春のクラシックレースに出走は叶わなかった。
ひと息入れた7月、福島競馬場のラジオNIKKEI賞(GIII)に出走したタマモサポートは、ソングオブウインド以下を下して優勝。重賞ウイナーの仲間入りを果たした。
「この勝利は価値があると思います。のちの菊花賞馬のソングオブウインドを負かしたのですから」と、北海道で競走馬の育成牧場長の経験もある佐藤さんは言う。この時の鞍上は、藤岡佑介騎手から津村明秀騎手にスイッチされていた。
「藤岡佑介と同期だったこともあって、お父さんの藤岡調教師が僕の騎乗を見ていてくれたみたいなんです。あの時、藤岡が確か函館で乗っていたので、僕に依頼が来たと記憶しています」と津村騎手は振り返った。初めて跨ったのが