▲ netkeiba Books+ から「サイレンススズカ ターフを駆け抜けた 伝説の逃げ馬の生涯」の1章、2章をお届けいたします。(写真:1998年の毎日王冠/下野雄規)
予期せぬ別れは突然やってきた。1998年11月1日の天皇賞・秋。多くの人たちを魅了してきたサイレンススズカがこの世を去った。当時を知る読者なら、府中に詰めかけた観衆の大歓声が悲鳴に変わった瞬間をご記憶の方も多いのではないか。あれから今年で丸20年を迎える。記録に残るか、それとも記憶に残るか。スポーツ界ではよく使われるこの言葉の両方で、人々の心の中に深く刻まれた名馬はそういないだろう。G1での戦績は1勝ながら、「影さえ踏めない」脅威のスピードで競馬ファンらを熱狂させた「音速の貴公子」。だが、すべてが順風に来たわけではない。「遅れてきた大物」と評され、わずか5年の生涯は一方で幾度もの困難を乗り越えてきた歴史でもあった。いまここに、改めてターフを駆け抜けた「稀代の逃げ馬」の短い生涯を振り返ってみたい。(文中敬称略) (文:吉中 由紀)
第1章 3強対決を制した「逃げ馬」の真骨頂
サイレンススズカを語るうえで決して忘れることのないレースが冒頭記した天皇賞・秋とするなら、もっとも印象の残った名勝負といえば、やはりこのレースだろう。
1998年10月11日、毎日王冠 芝1800m。
宝塚記念馬のサイレンススズカ5歳(現表記で4歳)をはじめ、無敗でNHKマイルカップを制した4歳馬(現表記で3歳)エルコンドルパサーと、同じく無敗で朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を異次元の末脚で圧勝したグラスワンダーという大物外国産馬も2頭顔を揃えたことで、このレースは9頭立ての少頭数になった。
だが、その注目度は相当なもので、レースが始まる数時間も前から東京競馬場は熱気で溢れかえっていた。
G2レースにも関わらず、詰めかけた観客は13万人。G1をもしのぐ勢いだった。それも当然で、この“3強対決”が実現するのは難しく、たとえば当時の天皇賞・秋は出走制限から外国産馬のグラスワンダーとエルコンドルパサーは出走できない規定がある。注目されるのは必然だった。
1番人気にサイレンススズカ、2番人気は「怪物」との異名をとる注目株のグラスワンダー、そして3番人気が「スタミナの化け物」と呼ばれたエルコンドルパサー。
そして、レースはスタートした。予想どおり、サイレンススズカの逃げで始まったレースは、ランニングゲイル、エルコンドルパサーと続き、そしてビッグサンデー、グラスワンダー、テイエムオオアラシらが追った。
1000mの通過ラップは57秒7。並みの逃げ馬なら潰れてしまってもおかしくない。
実況アナウンサーは「小細工なしの真っ向勝負」と、このレースを展望していたが、グラスワンダー陣営は一つの策を講じていた。
サイレンススズカは、ぶっちぎりの「逃げ馬」である。だが、武豊が「逃げて差す」と称したように、この頃のレース展開は途中で「息を入れ」、二の脚を使ってまた加速するスタイルをとっていた。このギアチェンジは、再度の加速でトップスピードを出せる馬にしかできない芸当だった。
グラスワンダー陣営は、サイレンススズカが「息を入れた」スキが勝負と見ていた。ここでつけ込み、並びかけてから一気に抜き去ろうと考えたのだ。
しかし、逃げて差せるサイレンススズカはひと味もふた味も違う。強引に仕掛けたグラスワンダーらを第4コーナー付近でひきつけた後、直線に入って再びギアを入れて置き去りにした。グラスワンダーはついていけず、5着に沈み、真っ向勝負を挑んだエルコンドルパサーも最後までサイレンススズカの影を踏むことはできずに2着に終わった。
「3強対決」と騒がれたレースは、蓋を開けて見れば、「グランプリ・ホースの貫録、どこまで行っても逃げてやる」と実況アナウンサーが叫ぶように、サイレンススズカの強さを見せつけたものとなった。
1998年の毎日王冠 レースを終えた武豊はこうコメントしている。
「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然かわされる気はしませんでした」
武とサイレンススズカが目指した「逃げて差す」というレース展開は、ここに完成を見た。
エルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義騎手は、レース後「(サイレンススズカの)影さえ踏めなかった」と語り、この時から「影さえ踏めない馬」はサイレンススズカの代名詞の一つとなった。
これで5歳になって負けなしの6連勝。大きな目標としていた秋の天皇賞に王手をかけた。そして、周囲の話題は一つに集中していた。
「天皇賞では、どんなレースを見せてくれるのか」
だが、まさか次の天皇賞があまりにも受け入れがたい現実を突きつけられることになるとは誰一人想像すらしていなかった。
サイレンススズカとの永遠の別れ、沈黙の日曜日が訪れようとは……。
その本題に入る前に、次章からはサイレンススズカ誕生からの“光と影”の軌跡を辿る。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ から「サイレンススズカ ターフを駆け抜けた 伝説の逃げ馬の生涯」の1章、2章をお届けいたします。(写真:サイレンススズカを管理した橋田満調教師/高橋正和)
第2章 誕生
1993年の種付けシーズンも終わりに近づいていた。もはや途方に暮れている余裕などない。振り返ると、ことごとく意に反した種付けの連続だった。
サイレンススズカの母はアメリカ産のワキア。
当初、父親はバイアモンになるはずだった。だが、2度の種付けに失敗し、トニービンに変更になった。
ところがワキアが発情した時には、トニービンは「先約あり」で断念。「どうしたものか」と困っていると、社台のひと言が生産者を救った。
「サンデーサイレンスなら、今日空いてます」
社台がアメリカから輸入した種牡馬だった。
あれこれ迷っている暇はない。この「3度目の正直」に賭けるしか道は残されていなかった。
あとで思えば、これが大当たりだった。なぜなら1990年代後半、サンデーサイレンスの産駒が日本競馬を席捲したからだ。初年度産駒のフジキセキが朝日杯3歳ステークス、ジェニュインが皐月賞、タヤスツヨシが日本ダービー、ダンスパートナーがオークスを制覇するなど、次々とG1勝ち馬を誕生させた。その後のディープインパクト産駒を超える勢いだ。
だが、ワキアの種付けに行ったのはまだサンデーサイレンスの産駒がデビューする前である。ある意味バクチだったが、そのバクチに出た。
1994年5月1日、稲原牧場に一頭の仔馬が生まれた。あだ名は「ワキちゃん」。のちのサイレンススズカである。
牡馬だったが、馬体は小さくて、牝馬のように大人しい。やたら人懐っこくて、可愛がられはしたが、これと言って特徴のない馬だった。
ただ、不思議だったのは、母は鹿毛、父は青鹿毛なのに、この仔は栗毛だったこと。
「両親の組みあわせでは考えられない栗毛が産まれたら、その馬は走らない」
そんな言い伝えがふと頭をよぎった。
そしてもう一つ、ワキちゃんには馬房をくるくると左に回るという、独り遊びのクセがあった。
サラブレッドとしては遅い5月の産まれだったせいか、ワキちゃんの成長は他の馬より遅かった。そのため、焦らずにゆっくりと育てられた。
相変わらず、目立つタイプでは決してなかったが、体だけは相当柔らかかったといい、周囲は「そこそこは走ってくれるだろう」という見立てをしていた。
その評価が大きく期待へと変わったのは、牧場近くの二風谷軽種馬育成センターに移ってから。ここで3歳秋まで過ごすわけだが、馴致が進むにつれて快速の片鱗が見え始めた。
「これは間違いなく走るぞ!!」
育成センターでサイレンススズカにまたがった乗り役たちは、口々に揃えた。とにかくバネが尋常ではない。日に日に評価は高まっていった。
入厩が近づくころ、ちょっとしたトラブルがあった。調教中、脚をぶつけて外傷を負ってしまったのである。このアクシデントによって、大きく予定が狂うことになる。
ケガそのものはたいしたことがない。ただ、入厩が遅れてしまった。そのため、デビューは年明けの4歳(現表記で3歳)の2月まで待たなければならなかった。
一方で、デビューに向けて3歳の冬に栗東の橋田満厩舎へ移った。このころにはオープン馬に先着したり、信じがたい時計を坂路で出したりと、すでに周囲を驚かせる存在になっていた。
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- サイレンススズカ ターフを駆け抜けた 伝説の逃げ馬の生涯
- 第1章 3強対決を制した「逃げ馬」の真骨頂
- 第2章 誕生
- 第3章 圧巻のデビュー戦
- 第4章 混迷と挫折 雌伏の時期
- 第5章 この馬に勝てる馬はいない
- 第6章 「涙の日曜日」、そして伝説へ