▲ netkeiba Books+ から「日本経済から読み解くテイエムオペラオー 偉大な賞金王の記録」の1章、2章をお届けいたします。(写真:2000年の天皇賞春)
2017年の有馬記念はキタサンブラックが優勝、獲得賞金額を18億7684万3000円とし、2001年以来、テイエムオペラオーが保持していた記録がついに破られた。その間16年。この時の流れは競馬界にとって、そして日本にとってどのような時代だったのか。ひとつの区切りとして検証してみたい。 (文:木村 俊太)
第1章 16年ぶりに塗り替えられた賞金王の記録
2017(平成29)年12月24日、第62回有馬記念。白い帽子のキタサンブラックは好スタートを切って先頭に立ち、後続に1馬身半差をつけて逃げ切り勝ちを収めた。鞍上の武豊騎手が右鞭を上げ、勝利の喜びを体で表現する。それはまた、競馬の歴史が16年ぶりに動いた瞬間だった。
2017年 有馬記念 このレースでの勝利により、キタサンブラックの生涯獲得賞金は18億7684万3000円となり、テイエムオペラオーの獲得賞金18億3518万9000円(秋三冠の褒賞金1億円を除く)を抜いて、獲得賞金額歴代トップに躍り出た。テイエムオペラオーの引退は2001(平成13)年。キタサンブラックは、16年ぶりに獲得賞金の記録を塗り替えたのだ。
まさに歴史的名馬キタサンブラックにふさわしい記録だ。
賞金ランキング(2018年2月現在)
だが、同時に不思議な感覚にもとらわれる。この16年の間、キタサンブラックに優るとも劣らぬ名馬は数多くいたはずだ。歴代獲得賞金ベスト10を見ると、錚々たる名馬たちの名がずらりと並んでいる。
なぜこれらの名馬たちは、獲得賞金でテイエムオペラオーに追いつけなかったのか。そして、なぜキタサンブラックはテイエムオペラオーに追いつき、抜き去ることができたのか。
その理由を探る前に、まずは居並ぶ名馬たちが16年間も追いつけなかったテイエムオペラオーとはいかなる馬だったのかを思い出してもらうべく、その生涯を振り返ってみたい。テイエムオペラオーは1996(平成8)年3月13日、北海道浦河郡浦河町にある杵臼牧場で生まれた。ちなみに、3月13日というのは、史上初の7冠馬シンボリルドルフと同じ誕生日である。
テイエムオペラオーの父はオペラハウス、母はワンスウエド、母の父はBlushing Groom(ブラッシンググルーム)という血統である。
母ワンスウエドは、杵臼牧場の場長、鎌田信一が初めて海外のセリ市に出掛けた際に購入した繁殖牝馬だった。杵臼牧場は、家族と数人のスタッフで切り盛りする牧場で、大牧場のように潤沢な資金があるわけではなかったので、手頃な金額の馬の中から選ぶしかなかった。
ぼってりとしたお腹がいかにも繁殖牝馬向きだと思った鎌田場長は、安価な繁殖牝馬ワンスウエドを購入して帰国の途に就いた。
このワンスウエドの相手として鎌田場長が選んだのが、日本軽種馬協会が所有するオペラハウスという種牡馬だった。
日本軽種馬協会所有の種牡馬は、種付け料が安い。家族経営の杵臼牧場には、安い種付け料は魅力だった。もちろん、オペラハウスの「晩成型で長い距離でももつ馬」という特徴が最大の魅力だったのだが、決断の背中を最後に押してくれたのは、やはり手頃な「価格」だった。
ワンスウエドは翌年、無事に栗毛の牡馬を産む。
この栗毛の誕生から10日ほど経ったある日、後にテイエムオペラオーのオーナーとなる竹園正繼氏が杵臼牧場を訪れた。仔馬の購入のためだった。竹園氏はこのワンスウエドの栗毛の仔を見るなり、たいへん気に入り、鎌田場長に「買いたい」と言った。
しかし、このとき鎌田場長は「はい、わかりました」と言うわけにはいかなかった。日本軽種馬協会所有の種牡馬の子はセリ市に出すことが義務付けられているからだ。
「気に入っていただいたのはうれしく思います。ですが、この馬はオペラハウスの仔なので、セリ市に出さなければなりません。ぜひ、セリ落としてください」
そして、セリ市。竹園氏は初志貫徹で、このワンスウエドの栗毛の仔をセリ落とした。落札価格は1050万円。まさかこの1050万円の仔馬が、後に賞金王、しかも世界一の賞金王(当時)になるなどとは、このとき誰一人として思ってもいなかったのである。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ から「日本経済から読み解くテイエムオペラオー 偉大な賞金王の記録」の1章、2章をお届けいたします。(写真:1982年日本ダービー、ゼッケン17番がバンブーアトラス。読売新聞/アフロ)
第2章 クラシック追加登録
竹園正繼氏にセリ落とされ、栗東の岩元市三厩舎に入厩したワンスウエドの栗毛は、テイエムオペラオーと名付けられた。
竹園氏と岩元調教師とは、小さい頃からの幼なじみ。ふたりは鹿児島県肝属郡垂水町(現・垂水市)で兄弟のように育った仲だ(竹園氏が2学年上)。
中学を卒業した竹園氏は県内の高校へ進学し、岩元氏は大阪の花屋に就職した。その後、お互いに音信不通となったが、企業経営者になっていた竹園氏がテレビの競馬中継を見ていると、日本ダービーを勝利したバンブーアトラスに騎乗していたのが、幼なじみの岩元氏であることに気づいた。
花屋に就職したはずの幼なじみが、いつの間にかダービージョッキーになっていたことに驚き、自身も一念発起する。事業をさらに成功させて、自身が馬主になり、幼なじみに会いに行こうと心に決めたのだった。
5年後、竹園氏は馬主資格を得た。それこそ、寝る間も惜しんで働いた結果だった。
その後、騎手を引退して調教師となった岩元氏の厩舎に、竹園氏は自身の所有馬を数多く託した。テイエムオペラオーもそのうちの1頭だった。
さて、そのテイエムオペラオーだが、いきなり「未来の賞金王」の片鱗を見せたというわけではなかった。
デビューは1998(平成10)年8月15日。鞍上にはその後、共に伝説を築き上げていく和田竜二騎手を迎え、断然の1番人気になりながら2着に敗れている。
レース後に発覚したケガもあり、次戦は年明け1月16日の未勝利戦となった。休み明けということもあり、このレースは4着に敗れる。
初勝利は、1999(平成11)年2月6日の未勝利戦。快進撃はここから始まる。
とはいえ、馬主の竹園氏も、岩元調教師も、この時点では「オープン馬になって、そこそこ稼いでくれるかな」ぐらいの認識だった。実際、この時点では、テイエムオペラオーのクラシック登録はされていなかった。
この後、ゆきやなぎ賞(500万下)、毎日杯(G3)と連勝したため、追加登録料200万円を支払ってクラシックの追加登録をすれば、皐月賞への出走が可能となったのだが、追加登録については、当初、陣営の意見は真っ二つに分かれていた。
岩元調教師は、目の前で日に日に状態を上げていくテイエムオペラオーを見て、「ぜひ、皐月賞を走らせたい」と思った。
それに対して、竹園オーナーは「無理して皐月賞を使う必要はない。じっくり調整して、ダービーに向かいたい」と考えていた。
このとき、ちょっとしたエピソードがある。杵臼牧場の鎌田場長のもとに、以前から親交のあった栗東の瀬戸口勉調教師から電話がかかってきたのだ。内容は、テイエムオペラオーについてだった。
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- 日本経済から読み解くテイエムオペラオー 偉大な賞金王の記録
- 第1章 16年ぶりに塗り替えられた賞金王の記録
- 第2章 クラシック追加登録
- 第3章 オグリキャップとテイエムオペラオー
- 第4章 完全試合への道
- 第5章 記録達成と勝てない日々
- 第6章 テイエムオペラオーとキタサンブラック
- 第7章 日本経済の失われた20年
- 第8章 賞金総額の推移から見えるもの
- 第9章 キタサンブラックの活躍は日本経済復活ののろしか