▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part3・アジア/オセアニア編〜」の1章、2章をお届けいたします。(写真:2016年インターナショナルジョッキーズCS オープニングセレモニー(ハッピーバレー競馬場)/Shutterstock/アフロ)
日本調教馬の海外遠征というと、どうしても欧州に目が向いてしまうが、歴史・グレード面からみてもアジアでのレースはまったく引けを取らない。もはや常勝軍団と化したこの地域でのサムライたちの活躍を振り返ろう。 (文:『netkeiba Books+ 編集部』)
第1章 日本調教馬、“もうひとつの海外挑戦史”
日本から見て「競馬の本場」といえば、芝レースならヨーロッパ、ダートレースなら米国というのが一般的感覚と言えるだろう。しかし、かつて「地球の陸地の3分の1を支配する」といわれた大英帝国の影響もあって、競馬は世界中で開催されている。
本書では、大英帝国の強い影響下にあったアジア・オーストラリアでの日本調教馬の熱闘を振り返りながら、いまではすっかり定着した感のある“もうひとつの海外挑戦史”を改めて振り返ってみよう。
まずは、7階建ての壮観なスタンドを誇る、香港・ハッピーバレー競馬場を眺めることから始めよう。開場は1846年。日本では幕末の開国後に横浜の外国人居留地で最初の洋式競馬がおこなわれ、1866年に開場した横浜・根岸競馬場が国内初の常設競馬場とされているので、香港の競馬は日本よりも20年ほど長い歴史を持つことになる。
香港と同じように英国の植民地だったシンガポールでも競馬の歴史は古い。今では数多くの商業施設でにぎわうファラーパークで最初の競馬がおこなわれたのは1843年のことで、現在ではシンガポール島北西に位置するクランジ競馬場(1999年開場)でシンガポール・ダービー、シンガポール航空インターナショナルC(いずれもG1)などのレースが開催されている。
そしてオーストラリアのフレミントン競馬場も挙げる必要がある。メルボルン郊外に1840年に開場され、メルボルンカップをはじめとする大競走が開催される、オセアニア競馬の中でも最大級の規模を誇る競馬場だ。
こうした競馬場で日本のサムライ・サラブレッドたちはどのような闘いを演じたのだろうか。まずは、香港・シンガポールでビッグレースに挑んだ日本調教馬の足跡を追いながら、さらにオーストラリアで重賞初勝利を挙げた、あるサムライ・サラブレッドの力走にも迫っていこう。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ から「世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part3・アジア/オセアニア編〜」の1章、2章をお届けいたします。(写真:1994年香港C フジヤマケンザン/今井寿恵)
第2章 海外が認める香港C勝利が持つ意味とは
まずは、香港から見てみよう。
世界の競馬ファンが注目し、日本調教馬も多く挑戦してきたのは、まず毎年12月に開催される香港国際競走の各レース(香港ヴァーズ・香港スプリント・香港マイル・香港C/いずれもG1)。そして、毎年4月に開催されるクイーンエリザベス2世C(G1)だ。
レースの舞台となるのは、1978年に開場されたシャティン競馬場。1988年に香港で初となる国際レース・香港カップが開催され、1993年4月の香港マイル(当時のレース名は香港ボウル)にはホクセイシプレーが日本調教馬として初出走を記録している。
香港における日本調教馬の熱闘は、このシャティン競馬場で繰り拡げられてきた。
香港で日本の調教馬が初勝利を挙げたのは、1995年、香港C(芝2000:当時のレース名は香港国際C/当時G2)でのこと。日本の調教馬としてはじめてシャティンを走ったホクセイシプレー(14着)から2年後の吉報だった。
その馬の名は、フジヤマケンザン(当時8歳)。前年の香港Cにも出走して4着の成績を残していたが、その前走で、11着に終わったジャパンC(G1)までデビュー以来の戦績は27戦7勝。1991年の菊花賞(G1)で3着と好走を見せたことはあったものの、G1での勝利はなく、当時はファンの間で取り立てて騒がれることもない馬だった。
しかし、1994年12月の香港Cに出走後、快進撃を始める。次のレースとなった翌1995年3月の中山記念(G2)では競り合いをクビ差で制し重賞2勝目(1勝目は92年の中日新聞杯G3)を挙げ、さらに七夕賞(G3)、富士S(OP)にも勝利してこの年は国内で6戦3勝。この成績を引っ提げて、再び香港Cに挑んだわけだ。
鞍上は、前年の香港遠征に引き続き、蛯名正義騎手。そう、このサムライ・サラブレッドシリーズの欧州編で紹介した通り、1999年にエルコンドルパサーを駆って凱旋門賞で2着の成績を収めることになる名ジョッキーだ。
12頭立てのこのレースでフジヤマケンザンは、単勝38.65倍の8番人気。
道中はずっと内の4〜5番手を追走して徐々に進出していった。そして最後の直線。ここでアイルランドから参戦のヴェンティクアトロフォグリ(Ventiquatrofogli)が抜け出しを図る。残り2ハロンの地点で後続との差はおよそ2馬身。レースはここからだった。
ラスト100メートル。フジヤマケンザンは力感溢れる強烈な末脚を見せ、最後は逆に4分の3馬身差をつけて見事ゴールインする(映像ではアナウンサーが“フジヤマケンゼン!”と連呼しているのがご愛敬)。タイムは1分47秒0のレコードタイム。蛯名騎手は興奮のあまりムチを投げ飛ばしたほどだった。
「負けたくはなかった。だって富士山(香港での馬名表記)は日本の代表なんですから」
蛯名は会見で答えていた。
そして、この1勝は1959年に米国サンタアニア競馬場で開催されたワシントンズバースデーH(現在のレース名はサンルイレイH/1973年からG2、1997年からはG3)でハクチカラが勝利して以来、36年ぶりとなる日本調教馬の海外重賞制覇となった。もっともこのときハクチカラの米国遠征に帯同した日本人は、輸送に携わった職員以外には騎手兼厩務員のひとりだけ。それと比べれば、このフジヤマケンザンの勝利は、初の“チーム・ジャパン”による海外での成果といえよう。
これほどの快挙であったのに、スポーツ紙をはじめとする日本メディアの対応は比較的地味で、小さな扱いに過ぎなかった点は特筆すべきだろう(同じ年に武豊騎乗のダンスパートナーがフランスのG3競走・ノネット賞で2着となったときより扱いが小さかったともいわれている)。
しかし、地元香港では一般紙『ザ・スタンダード』『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』などが一面で報じ、英国のスポーツ紙『スポーティングライフ』は写真とともに報道。米国の競馬専門誌『ブラッドホース』は特集を組むほどの力の入れようだった。
この現象は当時、日本で香港競馬が軽く見られていたことと、その一方で欧米のメディアは香港競馬のステイタスと日本調教馬の力量を冷静に分析していたことを示すものかもしれない。『ブラッドホース』の編集長はこの勝利を受けて、「日本の競馬ファンにとっては驚きかもしれないが、香港CはジャパンCと同等か、それ以上の格を持つレースだ」と語っている。
フジヤマケンザンは香港C制覇の翌年、8歳馬として臨んだ1996年の金鯱賞(中京競馬場/G2)でも勝利。8歳馬の重賞制覇としては、JRA史上3頭目の快挙を成し遂げた。
JRAは1994年11月、日本調教馬の海外挑戦をさらに促す目的で、翌1995年以降、アイルランド・英国・フランスなどのヨーロッパ主要国に加え、オーストラリア・ニュージーランド・米国・カナダで開催されるグレードレース(G1〜3)で3着以内か、それ以下の格付けのレース(リステッドレース)で勝利した場合には報奨金を出すことを発表している。フジヤマケンザンも香港Cでの勝利により報奨金を得たが、これ以降、欧米よりも圧倒的に近い香港への日本調教馬による遠征は、急激に増えていくことになる。
実際、フジヤマケンザンが香港Cで勝利した1995年の香港国際競走には、ほかにタニノクリエイト(香港ヴァーズ)、ドージマムテキ(香港ボウル)も参戦しているし、翌1996年には2頭、1997年には3頭が参戦した。
その後、日本調教馬による香港競馬2勝目は1998年、ミッドナイトベットが香港Cで成し遂げている。
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- 世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part3・アジア編〜
- 第1章 日本調教馬、“もうひとつの海外挑戦史”
- 第2章 海外が認める香港C勝利が持つ意味とは
- 第3章 2001年・香港国際競走での快挙
- 第4章 凱旋門賞より遠かったスプリントでの勝利
- 第5章 シンガポールで決めたワンツー・フィニッシュ
- 第6章 伝統のメルボルンCがジャパンデーとなった日
- 第7章 【付録:アジア/オセアニア競馬場ガイド】 同じ旧英領なのに、香港は右回りでシンガポールは左回り?