▲ netkeiba Books+ から「血統」からひもとくメジロ牧場の1章、2章をお届けいたします。(写真:'16香港カップ:モーリス / 高橋正和)
2016年、香港Cで有終の美を飾ったモーリス。その母・メジロフランシスを遡ると、一時代を築いたメジロ牧場の根幹血統であるメジロボサツに行き着く。孝行息子の活躍によって、再び脚光を浴びることとなった「メジロブランド」の底力。メジロ牧場を支えてきた血脈を辿りながら、その栄枯盛衰を振り返る。 (文:村本浩平)
第1章 「mejiro」の血統が、世界の競馬にその名を記した
2011年3月2日。日高町の戸川牧場で父スクリーンヒーロー、母メジロフランシスという血統を持つ牡馬が誕生する。
1歳、2歳と2度にわたるセール、そして、ノーザンファーム早来での育成調教を施されながら、さらに逞しさを増していったその牡馬は「モーリス」と名付けられる。
本格化を果たした4歳時には破竹の快進撃を続け、安田記念とマイルCSという2つのマイルG1で優勝。勢いは止まらず、初の海外遠征となった香港マイルも勝利してみせる。
翌春にも香港に出向いたモーリスは、チャンピオンズマイルを制覇。秋には芝2000mの舞台で行われた天皇賞・秋、そして3度目の香港遠征となった香港カップも優勝。見事に有終の美を飾ってみせた。
母の名として「メジロ」の名前を高めたのがモーリスとするなら、母父として「メジロ」に注目させたのが、父ステイゴールド、母オリエンタルアート(母父メジロマックイーン)とのあいだに誕生したオルフェーヴルといえよう。
父ステイゴールドと母父メジロマックイーンの配合は、「黄金配合」といわれるほどに相性が良く、全兄となるドリームジャーニー(朝日杯FS、有馬記念、宝塚記念)、ゴールドシップ(皐月賞、菊花賞、宝塚記念連覇などG1 6勝)などの、数々の活躍馬を輩出。
そのなかでもオルフェーヴルの活躍はずば抜けており、日本競馬史上7頭目、父、母、母父のすべてが内国産種牡馬としては、史上初めてとなる牡馬3冠を達成しただけでなく、その年には古馬を退けて有馬記念を勝利。4歳時には宝塚記念、5歳時には有馬記念を優勝し、4歳時と5歳時に挑戦した凱旋門賞では、2年連続で2着入着を果たした。
2013年:有馬記念 / オルフェーヴル 引退後は種牡馬となり、初年度産駒から皐月賞を制したエポカドーロを送り出すなど、順調なスタートを切ったオルフェーヴル。モーリスも種牡馬となり、初年度産駒たちは今年の春に続々と誕生を迎えている。
オルフェーヴルは芝のクラシックディスタンス、モーリスは芝のマイルと、活躍の場こそ違っているが、共通しているのは古馬となってから、さらに強さを増していくような成長力。そこに多大なる貢献を果たしているのは、2頭の血統にその名を残している、「メジロ」の血であるような気がしてならない。
史上初めて3冠牝馬となったメジロラモーヌ、史上初となる父仔3代天皇賞制覇を果たした、メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーンなど、数多くのGI馬を生産、そして育成してきたメジロ牧場であるが、2011年の5月20日に、解散という形で牧場の歴史に幕を下ろしている。
しかしながら、多くの名馬を送り出したその大地では、「レイクヴィラファーム」という、「メジロ」の血統を受け継ぐ生産牧場が開業。ショウナンラグーン(青葉賞)、コウソクストレート(ファルコンステークス)と、母に「メジロ」の冠名を持つ生産馬からは重賞馬も誕生している。
日本競馬界に多大なる貢献を果たし、そして今もなお、数多くの活躍馬の血統にその名を残し続ける、「メジロ」の名前。メジロ牧場の隆盛と衰勢、そして、レイクヴィラファーム開業のあらましまで、そのほとんどを見つめてきたレイクヴィラファーム・岩崎伸道代表の証言から、一世を風靡した「メジロ」牧場の“本当の姿”に迫ってみたい。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ から「血統」からひもとくメジロ牧場の1章、2章をお届けいたします。(写真:レイクヴィラファーム代表 岩崎伸道氏)
第2章 起伏の激しい土地を切り開き、スタッフ総出で育成牧場を作り上げた
メジロ牧場は1967年に、北海道の伊達市にて開場。1971年には現在のレイクヴィラファームのある洞爺湖町に分場(後に本場となる)も開設している。
それまでメジロ牧場の所有する繁殖牝馬は、創業者である北野豊吉氏が懇意にしていた大久保末吉元調教師(大久保洋吉元調教師の父)が振り分ける形で、日高管内の牧場で繋養されていた。
しかし、繋養する繁殖牝馬と牧場の数が増えてきた時期に、北野氏と旧知の仲で、伊達市内にあった高橋農場の内田場長から、生産馬の育成をともに行うことを持ちかけられる。
その際に創業地となる伊達の牧場に繁殖牝馬を集める計画が持ち上がり、実際に高橋農場から土地を譲ってもらい、そこに繁殖厩舎を2棟建てて、さらに高橋農場内には育成厩舎や調教コースを建造していった。
しかし、その繁殖牧場の開業から間もなくして、内田氏がガンで急死。頼りにしていた人物だけでなく、育成馬の行き先も失うことになった北野氏は、
「自分たちの力で一から育成牧場を作る」
との選択をする。その際、北野氏は地元の生産者の中心人物に声をかけ、
「今すぐ平らな土地で50町歩(約50ヘクタール)の土地を探してくれないか」
と頼み込み、次の年の2月に見つかったのが今のレイクヴィラファームがある、洞爺湖町の場所だった。
「(北野)豊吉さんが話すには、その時は雪が降り積もっていたこともあって、真っ平らな土地に見えたそうです。ただ、この辺は北海道を代表するような豪雪地帯で、山あり谷ありの起伏の激しい場所を、雪が覆い尽くしていただけだったというのは、契約が終わり、雪が溶けた後に知ったそうです」
とユーモラスなエピソードを交えて話すのは、メジロ牧場で長きに渡って専務を務め、現在はレイクヴィラファームの代表となっている岩崎伸道代表。
現在のレイクヴィラファーム
その後、伊達市には繁殖牧場を、そして洞爺湖町には育成牧場が作られていくことになる。その際、育成牧場における騎乗スタッフとなっていたのが、日本大学の馬術部に所属し、夏休みには伊達の牧場にもアルバイトに来ていた岩崎伸道氏だった。
「牧場でのアルバイト、そして、馬術で使う乗馬を譲り受ける際などに『メジロ』の馬たちや、北野家の方との関係が深まっていくなかで、卒業後に馬と関係する仕事をしようと思って選んだ職場がメジロ牧場でした。当時は育成牧場の土地に牧柵を立てている段階であり、自分も馬乗りの後はその手伝いをしたり、火山灰地だったコースに砂を入れるべく、海沿いの町までダンプを運転して砂をもらいに行ったりもしていましたね」
じつはメジロ牧場に入るまでの岩崎氏は、まったく競馬に関する知識を持ち合わせてはおらず、生まれて初めて競馬場に入ったのも、当時、東京競馬場で厩舎を構えていた大久保末吉厩舎へ乗馬を譲り受けに行ったときだったという。
しかし、岩崎氏はその真摯な性格と真面目さを見込まれる形で、事務的な仕事も任されるようになり、いつしか、牧場へ頻繁に足を運ぶことができない北野氏や、「メジロのおばあちゃん」として、競馬ファンに知られていく妻のミヤさんに変わり、専務として牧場の全般を取り仕切るようにもなっていく。
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- 「血統」からひもとくメジロ牧場
- 第1章 「mejiro」の血統が、世界の競馬にその名を記した
- 第2章 起伏の激しい土地を切り開き、スタッフ総出で育成牧場を作り上げた
- 第3章 圧雪した雪の上で行われた騎乗育成。他には真似ができない「メジロオリジナル」
- 第4章 牝系を残していけるだけの下地が整い、そこに「天皇賞制覇」という目標も生まれた
- 第5章 自然災害を乗り越えて、日本競馬史にその名を残す名馬を次々と送り出す
- 第6章 生産馬の不振に、賞金の減額…。さまざまな要素が牧場経営を圧迫していった
- 第7章 ミヤさんとの約束を守り、牧場を閉鎖。待っていたのは、古き友人からの協力だった
- 第8章 「メジロ」から「レイクヴィラ」へ。永遠に残り続けるその歴史と系譜