▲ netkeiba Books+ からタニノギムレットとウオッカのダービー史上唯一父娘制覇の偉業の1章、2章をお届けいたします。(写真:'07日本ダービー口取りにて / 下野雄規)
競馬の世界には、「ダービー馬はダービー馬から」という格言がある。実際、日本のダービーでも2017年までに11組の親子制覇が達成された。その中で、ひときわ目を引くひと組の親子がいる。タニノギムレットとウオッカ。そう、唯一の“父娘”制覇だ。ウオッカのダービー制覇は、「64年ぶりの牝馬による制覇」というそれ自体がひじょうにドラマチックなレースであったが、そこにいたるまでに、数十年にも渡る壮大なストーリーが連綿と紡がれていた。本書では、タニノギムレットとウオッカのダービー制覇までの軌跡をたどり、競馬の魅力に迫っていく。 (文:『netkeiba Books+ 編集部』)
第1章 父娘制覇の起源
長年競馬を見ていると、ごくまれに、数年に一度くらいの頻度で歴史的な瞬間を目にすることがある。たとえば、オグリキャップの奇跡の復活勝利や、シンボリルドルフとディープインパクトの無敗の三冠制覇、東日本大震災直後の日本馬によるドバイワールドカップ・ワンツーフィニッシュなどがそれにあたるだろう。希少価値という意味では、ウオッカが成し遂げた64年ぶりの牝馬によるダービー制覇はそれらを凌駕する。
そもそも、2017年までの84回に亘る日本ダービーの歴史において牝馬の勝ち馬はわずか3頭しかいない。ウオッカ以外の2頭は、ヒサトモとクリフジで、競走馬全体の層が現在より薄かった戦前の頃の記録だ。異形であることは間違いないが、現代と同等の価値があるとは言いづらいだろう。それゆえにウオッカの勝利はひときわ輝きを放っている。
ウオッカの父、タニノギムレットもダービーを勝っているので、親子制覇である。日本ダービーの親子制覇は2007年のウオッカで5組目だった。その以後の10年で6組が達成しているので、前述したように計11組が誕生したことになる。親子制覇自体はもはやめずらしくなくなったが、“父娘”という関係では話はまったく別で、当然唯一のケースである。
当時から競馬を見ているファンにとってはいまさらな話になるが、タニノギムレットとウオッカは同じ勝負服(黄色地に水色襷)、つまりは同じオーナー、谷水雄三の所有馬。谷水はオーナーブリーダーであるため、生産者も同じカントリー牧場である。
本書では、タニノギムレットとウオッカ、この2頭の背景や2頭をめぐる人と馬のつながりをひもとき、ここから話を進めていくダービーの、そして競馬の魅力を伝えていきたい。
日本ダービー(正式名称:東京優駿)は1932年の創設以来、2017年までに84回行われてきた。その長い歴史のなかで、栄光を複数回勝ち取った生産者、オーナーがいる。下記のランキングをご覧いただきたい。
〈日本ダービー・生産者別勝利数ランキング〉 1位 ノーザンファーム 8勝(ディープインパクトなど)
2位 社台ファーム 6勝(ネオユニヴァースなど)
下総御料牧場 6勝(クリフジなど)
小岩井農場 6勝(セントライトなど)
5位 カントリー牧場 4勝(ウオッカなど)
〈日本ダービー・馬主別勝利数ランキング〉 1位 (有)サンデーレーシング 3勝(オルフェーヴルなど)
金子真人 3勝(ディープインパクトなど)
2位 (有)社台レースホース 2勝(ネオユニヴァースなど)
谷水雄三 2勝(ウオッカなど)
谷水信夫 2勝(タニノムーティエなど)
※以下、同率2位が多数のため省略
生産者ランキングでは、現代の競馬界をけん引する社台グループの巨大牧場と、日本競馬発祥当時に栄えていた二大牧場が名を連ねている。このなかで5位のカントリー牧場(ウオッカ、タニノギムレットなどを生産)だけは異質である。生産規模は上位の巨大牧場と比べると圧倒的に小さい。にもかかわらず、4勝という記録を残しせていることは奇跡に近いと言っていい。
先述の2頭、ウオッカとタニノギムレット以外に、タニノハローモア(1968年)とタニノムーティエ(1970年)という2頭のダービー馬を出しているわけだが、まずはこの2頭の時代から振り返っていきたい。
物語は半世紀以上も前の1963年、実業家の谷水信夫(ウオッカのオーナーである谷水雄三の父。以下、この章ではそれぞれ信夫・雄三と表記)が北海道の新ひだか町(旧静内町)に「カントリー牧場」を創業したところから始まる。牧場名は、信夫が本業でオープンしたゴルフ場、皇子山カントリークラブに由来している。信夫は競走馬を「鍛え抜いて強くする」という信念のもと、“谷水式ハードトレーニング”と呼ばれる方法で競走馬育成に取り組んだ。
成果はすぐにあらわれた。創業2年目の生産馬で、 戸山為夫厩舎に預託したタニノハローモア(父ハロウェー)が9番人気という低評価をくつがえし、ダービーを勝利。1枠1番を生かした逃げ切りで、現代では考えられないが、なんとデビュー18戦目だった。この記録は現在も破られていない。
ここにも、「鍛え抜いて強くする」という信夫の方針が表れている。ちなみに、皐月賞を勝ち、このダービーで1番人気4着と敗れたマーチス(父ネヴァービート)もカントリー牧場の生産馬である(オーナーは大久保常吉)。つまり、信夫はこの年、生産者として皐月賞とダービーを勝ち、オーナーとしてもダービー制覇という輝かしい成績を残した。
2年後の1970年、またもカントリー牧場からクラシックホースを送り出した。過酷なハードトレーニングを耐え抜いたタニノムーティエ(父ムーティエ)だ。タニノムーティエは京都の島崎宏厩舎に預けられ、2歳夏にデビュー、3歳春の弥生賞を勝ち、その時点までで11戦9勝という成績を残した。クラシックの有力馬が3歳春の時点で11戦していることにも驚くが、さらに驚くことに、タニノムーティエはこのあとスプリングS→皐月賞→NHK杯→日本ダービーというローテーションをこなした。
この4戦は、ライバルのアローエクスプレス(父スパニッシュイクスプレス)との“AT対決”として話題を集めた。
アローエクスプレスはスプリングS出走時点で6戦無敗。2頭の実力はもちろんのこと、“関東馬”のアローエクスプレスと“関西馬”のタニノムーティエという図式も相まって、かなりの盛り上がりを見せた。当時の競馬は東西の分断が強く、ファンにとっても“関東馬”、“関西馬”という意識が現在より大きかった。
スプリングSはムーティエが勝ち、アローが2着。皐月賞も同じくムーティエが勝ち、アローが2着。一転、NHK杯はアローが雪辱を果たし、ムーティエが2着。そして迎えた日本ダービー。人気は関東馬のアローのほうが上だったが、結果はムーティエが勝利し、アローは5着に敗れた。
タニノムーティエはこの勝利で二冠達成。ダービーの勝利が12勝目というのは新記録であり、いまもなお破られていない。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ からタニノギムレットとウオッカのダービー史上唯一父娘制覇の偉業の1章、2章をお届けいたします。(写真:'02NHKマイルC / 下野雄規)
第2章 タニノギムレットの快進撃
信夫は、カントリー牧場創業から10年足らずで2頭のダービー馬を生産し、同時にダービー2勝オーナーとなった。「時代を築く」まさにそんな言葉があてはまる順風満帆なホースマン生活であった。が、好事魔多し、信夫に悲劇が襲う。1971年秋、鍼灸院に向かう途中で不慮の交通事故に遭い、急逝。以降の牧場経営や事業経営は、長男の雄三が引き継ぐこととなった。
当時30代前半だった雄三は、信夫の代に生産されたタニノチカラで天皇賞・秋(1973年)や有馬記念(1974年)などを勝ったが、それ以降しばらく、G1級勝ち馬を生産することができなかった。重賞勝ち馬は散発的に出ていて、生産規模を考えると不振というほどではなかったが、先代の華やかさと比べるとやはり見劣りした。
80年代、そして90年代も思うような成果は出せていなかったが、それでも雄三は馬づくりをあきらめなかった。土壌改良や繋養牝馬の整理、さらには繁殖用途専用の分場設置など、いくつかの改革を実行した。長い雌伏の時を経て、2000年代、いよいよその努力が実を結んだ。
2001年、夏。札幌競馬場である1頭の新馬がデビューした。名はタニノギムレット。「ギムレット」とはジンをベースにしたカクテルである。父ブライアンズタイム、母タニノクリスタル、母の父はクリスタルパレスという血統構成で、管理調教師は栗東の松田国英。冠名からわかるように、生産者はカントリー牧場でオーナーは谷水雄三だ。
このデビュー戦は、のちに活躍するクラシック路線とは対極のダート1000mという条件だったが、素質だけで2着に好走した。
その後、ソエの影響による4カ月の休養を挟み、12月の未勝利戦(阪神芝1600m)で復帰。四位洋文を背に、2着に1秒2差をつけて楽勝すると、その勢いのまま今度は武豊騎乗で年明けのシンザン記念に出走。内から力強く抜け出して快勝した。
この勝利で、陣営もファンもタニノギムレットをクラシック候補として強く意識した。まるで馬がそのことをわかっているかのように、つづく2月のアーリントンカップも豪快な末脚で差し切って重賞連勝を決めた。
皐月賞のトライアル、スプリングSは落馬負傷中の武に変わって再び四位が騎乗し、圧倒的な1番人気に応えて快勝した。
そして皐月賞。鞍上は引き続き四位。重賞3連勝中ということもあり、2歳王者のアドマイヤドンなどをおさえて1番人気に推された。しかし、末脚を生かすタイプのギムレットにとって、小回りで多頭数という条件が合わなかった。道中は後方に控え、勝負どころから大外を回って追い上げたものの、届かず3着。メンバー中唯一、34秒台の末脚を繰り出したが、先に抜け出したノーリーズンやタイガーカフェを捉えきれなかった。
2002年:皐月賞 敗れはしたものの、中山の短い直線で差し届かず惜敗というレース内容は、ダービーに向けて期待が持てるものだった。レース直後から、多くのファンは次のダービーはギムレットが巻き返して勝つだろうと見込んでいた。実際、この2002年から10年さかのぼってみても、2001年のジャングルポケット、1998年のスペシャルウィーク、1993年のウイニングチケットが、皐月賞では差し届かず敗れたあと、広い東京コースのダービーで本領を発揮して勝利を収めている。
カントリー牧場の、そして谷水家にとっての32年ぶりのダービー制覇が現実味を帯びてきた。ところが、陣営はここで意外な選択をした。
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- タニノギムレットとウオッカのダービー史上唯一父娘制覇の偉業
- 第1章 父娘制覇の起源
- 第2章 タニノギムレットの快進撃
- 第3章 異例のローテーション、32年ぶりの美酒
- 第4章 規格外の逸材 ウオッカ
- 第5章 ライバルとの激闘
- 第6章 64年ぶりの牝馬によるダービー制覇
- 第7章 3世代ダービー制覇の可能性