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世界史から学ぶ競馬(上)

  • 2018年07月17日(火) 18時30分
世界史から学ぶ競馬(上)

▲ netkeiba Books+ から世界史から学ぶ競馬(上)の1章、2章をお届けいたします。


「馬は人類に“文明”をもたらした最高のパートナーだった」———本書は、長年にわたり馬に寄り添って歴史を考えるという新鮮な視点を提示している歴史研究者がお送りする特別講義を2回に分けて収録。古代ローマの戦車競走から近現代の競馬まで。その内容は単に歴史を俯瞰するだけでなく、競馬への並々ならぬ愛情と情熱にあふれたもの。その“授業ノート”から、読者諸兄が世界史と競馬とのかかわりについて推考する機会を得られれば幸いである。

(文:本村凌二)



第1章 教養と競馬場通いの日々


 日々、競馬を楽しんでいらっしゃる皆さんはご存じだろうか?

 今、世間は“教養ブーム”であることを。

 書店で棚を眺めれば、「教養としての○○」「大人の教養」「これからの教養」といった類の書籍がすぐ目に入るし、テレビなどのメディアでも視聴者の“教養”を試すような番組が多い。これはインターネットなどで混濁様々な情報が飛び交うなか、本当の知識や情報を求めるニーズが増えてきたためだろうか?

 そのていでいえば、筆者なぞは東京大学と早稲田大学で長年にわたり教養学部の教授を勤めていたわけだから、我ながらずいぶんと“教養”を溜め込んだものと苦笑するしかない。実際、この春に上梓した書籍のタイトルは『教養としてのローマ史の読み方』であるし、過去にも“教養”と銘打った書籍を出している。

 もっとも、私はここで日本全国の競馬ファンに“教養”を押し付けるつもりはない。確かに私は自著のなかで、

「グルーバルスタンダードの“教養”は、“古典”と“世界史”だと思っています」

 と、再三にわたって書いている。長い年月にわたって、多くの人に読み継がれてきた文芸や思想の作品である「古典」には、人間社会の普遍的な真理が詰まっているし、一方の「世界史」は人類の経験の集大成に他ならないからだ。過去五千年にわたる文明史からは、個人の経験より遥かに多くのことを学ぶことができる点、私は信じて疑わない。

 それはそれとして。

 私は、他にも少々変わったタイトルの書籍を過去に書いている。『馬の世界史』と『競馬の世界史』の2冊である。

 競馬は、私にとってのもうひとつのライフワークである。

 出会ったのはまだ学生の頃、父親にいわれて府中の競馬場に馬券を買いに行ったのがキッカケだった。そのときの、広々とした美しい環境とそこを翔るサラブレッドの姿に魅せられた。以来、幾星霜。筆者の馬券運は自慢できるようなものはほとんどないが、専門である古代ローマ史研究の名のもと、ヨーロッパの競馬場にはずいぶんと足を運んできたのはまぎれもない事実である。

 一応、弁明めいたことをいえば、これすべて、夏の休暇のたびにロンドンにある文書館に出向いて仕事をするのを長年続けたためである。そうなると、週末にはアスコット競馬場などへ足を運ぶことになってしまうわけである。

 試みに、今までに訪れた世界の競馬場と主なレース名を少し並べてみる(2017年4月現在)。

 ◆イギリス

・アスコット(キングジョージ、ロイヤルアスコット)
・ニューマーケット
  —ローリーマイル・コース(春・秋)(1000ギニー、2000ギニー)
  —ジュライ・コース(夏)(ジュライC
・エプソム(英ダービー、英オークス)
・サンダウン(エクリプスS)
・ドンカスター(セントレジャー)
・グッドウッド(サセックスS)
・ヨーク(インターナショナルS)
・エイントリー(グランド・ナショナル)
・ニューバリー
・ケンプトンパーク
・リングフィールド
・チェスター

 ◆フランス

・ロンシャン(凱旋門賞)
・シャンティイ(仏ダービー)
・ドーヴィル(ジャック・ル・マロワ賞)
・ヴァンサンヌ(トロット・レース)

 この他にも、アイルランド、イタリア、ドイツ、アメリカなどとまだまだリストは続くわけだが、とりあえずこれぐらいにしておこう。

 このうち、アスコット競馬場などは7月末のイギリス競馬最高峰レース、通称キングジョージを20回以上は観戦しており、いったい合計で何回足を運んだか、もはや数える気にもならない。

 そこで私は、名馬たちのドラマを数多く目にした。どれも私にとってかけがえのない財産である。とくに、歴史の瞬間ともいえる場面は、今もって脳裏に焼き付いて離れない。今日は特別講義でもあるし、まずはその思い出から話を始めたい。

(2章につづく)
世界史から学ぶ競馬(上)

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第2章 英国最強馬とポエニ戦争


 まさに、圧巻だった。

 1986年10月5日のロンシャン競馬場。私にとっては初めて間近でみる凱旋門賞。

 優勝はダンシングブレーヴ。

 その後、ロンシャンには幾度も足を運び、2006年のディープインパクト(3着入線・失格)、2010年のナカヤマフェスタ(2着)、2012、2013年のオルフェーヴル(2年連続2着)らが凱旋門賞に挑む姿を目撃することになるが、あとにも先にも、あのときのダンシングブレーヴほど心を振るわされた馬は見たことがない。

 ダンシングブレーヴは当時「英国最強馬」といわれ、地元イギリスの競馬専門紙『レーシングポスト』紙が発表した「20世紀の英国馬100頭」でも7位にランクされるほどの名馬である。しかし、この年、1986年6月4日のダービー(エプソム競馬場)では2着に終わってしまい、一方でライバルのフランス調教馬・ベーリングが6月8日の仏ダービーを含め5連勝と、勢いに乗って凱旋門賞に臨んでいた。

 私もその場にいた。

 最終コーナー手前。ダンシングブレーヴはまだ最後尾にいた。直線に入り、外に持ち出すが、前方ではベーリングとシャーラスタニが抜け出し、勝負はこの2頭に絞られたかに見えた。

 しかし、ここからだった。

 イギリス最強馬は、フランス最強馬以下の並みいる優駿を一気に追い込んでふり払っていく。ラスト200mは10秒8という爆発的なスピード。2分27秒7というコースレコード(当時)でゴール板の前を駆け抜けたときには、2着のベーリングに1馬身半の差をつけていた。

 あれは、まさしく歴史の瞬間だった。

 12のゼッケン馬が14のゼッケン馬を怒濤のごとく抜き去る場面に立ち会ったときの、ゾクゾクするような背筋のふるえ。それは今でも体感として残っている。私自身にとっても、あの場面ほど感動を覚えたレースは今なおない。もう一度あんなレースにめぐりあえたら、この世に未練はないほどに思っている。

 それにしても、私はつくづく思うことがある―――「馬という動物は、こんなにも速く走れるのか」

 高速の疾走は、未来へと向かって進みながら、その背後に過去を生み出していく。速度は「毎時○○キロメートル」といった単位で示されるように、時間の観念と表裏一体のものだ。しかし、人間が自分の足で歩いたり走ったりするだけだったら、はたして速度という観念を持ち得ただろうか。人間が自分の足で進むだけなら、わざわざ単位を設けて速度を計測することもなかったのではないか。私は、サラブレッドたちの疾駆する姿を見るたびに、自分の本来の職務である歴史学の遠い過去へ思いを馳せることがある。

 すでに申し上げたように、私はローマ史を専門とする歴史学者であり、同時に教養学部の教授として専門的になりすぎない、教養としての歴史学を学生たちに伝えるよう心がけてきた。そんななかで、とくに好評だった講義が、私の大好きな馬を切り口にした授業だった。それを書籍化したのが上記の2冊である。

「自分の趣味を講義に仕立てている」などと揶揄する向き、なきにしもあらずだったが、それはそれとして、私は馬のことを考えながら、電撃のごとき想念に襲われたある日のことを鮮明に覚えている。

 読者の皆さんは、ローマとカルタゴとのあいだで闘われたカンナエの戦い(Battle of Cannae:紀元前216年)というのをご存じだろうか?史上有名なハンニバルが登場する戦いである。

 今日では地中海に君臨した古代帝国といえば「ローマ」というのが常識だが、紀元前3世紀のその当時はまだ、ローマは地中海の覇権を巡る諸勢力のひとつに過ぎなかった。一方、現在のチュニジアを中心に北アフリカの地中海沿岸部、さらにはイベリア半島南部までも支配下に置いていたカルタゴこそが覇権争いを制するに値する力を持つと考えられていた。

 実際、この時期の地中海世界の強国とは、ローマを除けば、カルタゴにマケドニア、それにシリアとエジプトであった。このうち、マケドニア、シリア、エジプトの3国は後述するアレクサンドロス大王の死後に帝国を分割した将軍たちがそれぞれ起こした王国である。もし、当時の地中海世界を想定して“地中海制覇ステークス”なるレースが開催されるとすれば、ブックメーカーの本命はカルタゴあたりが来るのかもしれない。

 それはさておき。

 カンナエの戦いは、ローマとカルタゴが3度にわたって繰り広げたポエニ戦争のなかのひとつの戦いであり、ここでローマは空前の敗北を喫した。勝因はハンニバルの考案した戦術、とりわけ騎兵軍団の類まれな起用方法にあった(詳細はイラスト参照)。

競馬で学ぶ世界史

 カンナエで7万人のローマ軍と対峙したとき、カルタゴ軍は中央にピラミッド型に歩兵軍団を置き、その両側を騎兵軍団で固めるという陣形をとった。そして、数で勝るローマ軍が距離を詰めて前に出てくると、この歩兵部隊はジリジリと後退していく。それにつられてローマの兵士たちが前に出たところで、数でまさるカルタゴの両脇の騎兵軍団がローマ軍を側面から取り囲むように攻撃したのである。

 カンナエというのはイタリア半島南東部(現在のプーリャ州)にある地名で、そこにハンニバル率いるカルタゴ軍が現在のスペイン・イベリア半島からアルプス山脈を越えてイタリア半島奥深くまで侵攻してきた。ローマからすればホーム、カルタゴにとってはアウェーの戦いで、軍勢もローマ軍歩兵7万人に対してカルタゴ軍歩兵は4万人。こういった条件面での不利にもかかわらず、カルタゴ軍は勝つ。しかし、騎兵軍団の数ではカルタゴ軍が勝り、つまり、戦場において馬を有効に用いたことで、カルタゴ軍はローマとのアウェー戦を制したのである。

 人類の歴史にはこれまで数えきれないほどの戦争があったが、戦車・毒ガスといった近代兵器が登場した第一次世界大戦まで、つまり約100年前までは、その勝利の行方は馬が左右してきた。

 これはまぎれもない事実である。

 私は、馬の疾駆する姿を見て、人間は「速度」や「馬力」という観念を得たと考えているが、それどころか、馬がいなければローマやモンゴルのような世界帝国すら生まれていなかったはずであるとも思っている。人間の全力疾走をはるかに凌駕する速度で、しかも人間を背中に乗せながら長時間走ることで、世界はそれまでになかった姿を見せるようになってゆく。



 ちなみに、このカンナエの戦いは、第一次世界大戦以前の1日の戦いとしては、最大の死傷者を出した戦いといわれており、日本の防衛大学では教育課程の最初の授業でこの戦いを詳細に取り上げるそうだ。少ない兵力で強大な敵を倒すための世界最高峰の戦術として。

 しかし、これは馬が勝利のカギを握った戦いとしては、歴史上のほんの一例に過ぎない。

 騎兵軍団を戦いで重視した戦将としては、アレクサンドロス大王(紀元前356〜323年)とその父・フィリッポス2世(紀元前382〜336年)も有名だし、それより以前の古代エジプトでは紀元前1670〜1570年代に馬を用いた軽戦車がすでに伝えられている。この軽戦車という新兵器の登場もまた、世界史上衝撃的なものだった。

 その類の話は次章以下に回すとして、ここでそろそろ私の受けた「電撃のごとき想念」の正体を明かそう。私は決して大袈裟ではない仮説として、次にように考えている。

 馬がいなければ21世紀もまだ古代だった、と。

(続きは 『netkeiba Books+』 で)
世界史から学ぶ競馬(上)
  1. 第1章 教養と競馬場通いの日々
  2. 第2章 英国最強馬とポエニ戦争
  3. 第3章 馬を知らなかったアメリカ・インディアン
  4. 第4章 インドに消えた稀代の名馬
  5. 第5章 世界史理解のための3つの枠組み
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