取材先から戻ると、小桧山悟調教師の新著『馬を巡る旅〜旅路の果ての夢〜』が届いていた。「週刊競馬ブック」の連載をまとめたもので、これがシリーズ3作目だ。
帯に推薦文を寄せているのは、1作目が直木賞作家の浅田次郎氏、2作目が藤田菜七子騎手、そしてこの3作目は尾形充弘元調教師。これだけでも、「コビさん」こと小桧山調教師の仕事の幅と交遊関係の広さがわかる。
3作目の第1章「厩舎の春秋」は、コビさんが調教助手時代に関わった馬や、調教師として管理した馬などについて書かれている。2008年のクラシックをともに走ったスマイルジャックとベンチャーナインの近況や、所属する山田敬士騎手が初勝利を挙げるまでのエピソードも興味深い。
第2章「ターフの交遊録」は6つの節で構成されている。その5節目「競馬の語り部たち〜更級四郎・かなざわいっせい・島田明宏〜」に出てくる3人目は、私である。
これを読むと、コビさんと更級四郎氏は、出会うべくして出会ったことがわかる。
私に競馬を教えてくれたのは、更科氏の甥で、放送作家をしている「ウメさん」こと梅沢浩一氏だ。フジテレビの報道番組の特集枠のリサーチと構成をする仕事の先輩だったウメさんが、職場で競馬新聞をひろげていたのだ。
ウメさんの紹介で、当時、畠山重則厩舎の調教助手だったコビさんの家に遊びに行ったのは1987年の秋のことだった。31年前、私が23歳になった年だ。
翌春、当時コビさんの家に居候していたかなざわいっせい氏の後任として、私は、東京中日スポーツのレース課でアルバイトを始めた。それもウメさんの紹介だった。
寺山修司の競馬エッセイや、ディック・フランシスの競馬ミステリーなどを読むようになったのは、ウメさんや、コビさん、かなざわ氏の影響だった。前にも記したが、競馬に関する文章を書く者の必読書と認識して沢木耕太郎の『敗れざる者たち』を読んだのもそのころだった。
ちょっと複雑になるが、もう少し人のつながりを記すと、私が東京中日スポーツでバイトをしていたころ、同紙の記者として、今は朝日新聞にいる有吉正徳氏がいた。有吉氏は、コビさんの大学の後輩だ。それで、かなざわ氏の後任になる若者がいないかとコビさんに相談し、そこからウメさん、そして私へと話が来たのだ。
その有吉氏とは、この30年ほどいろいろなところでしょっちゅう会っているのだが、先日、グリーンチャンネル「草野仁のGateJ.+(プラス)」の楽屋で会ったときには驚いた。私は、自著を番組で紹介してもらうなど草野仁氏にお世話になっており、今も番組構成の一部に関わっている。有吉氏は、その収録時のゲストだったレーシングドライバーの星野一樹氏と親しく、星野氏とグリーンチャンネルの橋渡しをしたのだという。
30年近く前、私は、星野氏の父で「日本一速い男」と呼ばれた元レーシングドライバーの星野一義氏に何度か取材し、自宅にお邪魔してインタビューしたこともあった。
そのころには東京中日スポーツのバイトを辞め、放送作家として、また、フリーライターとして仕事をしていた。主に書いていたのは、若者向けの雑誌「ゴロー」と「ホットドッグ・プレス」だった。後者の嘱託編集者だった石黒謙吾氏は、フリーになってから『盲導犬クイールの一生』を上梓し、ベストセラーとなった。
石黒氏も競馬が好きで、1994年の三冠馬ナリタブライアンが走っていたころまでは、よく馬券を買っていたという。
その石黒氏の著作を、2015年に亡くなった後藤浩輝元騎手はよく読み、石黒氏が「カヌー姉妹」「おすぎとジーコ」とダジャレを記した掛け軸も持っていた。それならばと、私が紹介する形で、14年の2月、石黒氏と後藤元騎手と3人で食事をした。鍋の美味しい渋谷のその店は、石黒氏が選んだ。
精算をするとき、その店が、寺山修司の著作権の管理や関連イベントの窓口になっている会社に関係していることを知り、驚いた。もちろん、石黒氏はそれを知らずに予約していた。
当サイトのニュースでも告知したように、9月22日、土曜日、青森県三沢市の三沢市商工会館で、寺山修司アートカレッジ講演「寺山修司と競馬-競馬を文芸にした寺山修司-」が開催され、私が講師をつとめる。
予報を見ると当日は傘マークがついている。どのくらい人が来てくれるか不安だが、敬愛する「競馬エッセイストとしての寺山修司」の魅力を、しっかり話してきたい。