▲ netkeiba Books+ からジェンティルドンナの1章、2章をお届けいたします。
東日本大震災の翌年、ターフを沸かせた1頭の牝馬がいた。ジェンティルドンナ。イタリア語で“貴婦人”の名を冠した牝馬は牝馬3冠を達成しただけでなく、3歳牝馬として初めてジャパンCを制覇。翌年にも史上初のジャパンC連覇を成し遂げるなど、男勝りの活躍でファンを魅了。最終的には、海外を含めるとG1 7勝という輝かしい金字塔を残した。そんな日本競馬史上に残る女傑の蹄跡を辿る。 (文:木村俊太)
(写真:下野雄規、高橋正和、小金井邦洋、JRA、netkeiba)
第1章 サンデー系の「血の飽和」を緩衝する役割
貴婦人。
あまり使われない言葉だが、意味はなんとなくわかる。「高貴な婦人」ということだろう。あえて辞書を引いてみると「身分の高い女性。上流の婦人」(大辞林)とある。身分制度のない現代の日本では、「淑女」=「気品ある、しとやかな女性。品格・徳行のそなわった婦人。レディー」(同)と近い意味になるだろうか。あるいは、「紳士」=「gentleman」の女性バージョンといった解釈になるのだろう。
いずれにしても「おしとやかで、上品」というイメージとセットになる言葉だ。「物静か」「落ち着きがある」「おだやかな」といったイメージもともなうかもしれない。「凛」とした気高さを感じさせ、「戦い」とか「争い」、「勝負事」などとは対極にある言葉だといえる。
そもそも「戦い」や「争い」といった概念と、「女性」や「婦人」といった概念とは、一般的に、相容れにくいものといっていいだろう。もちろん例外はあるが、「戦闘」と「女性」との親和性が高いか低いかと問われれば、高いとは答えにくい。
ところが、古代ギリシャの神話(伝説)には、「アマゾン」と呼ばれる女性だけの戦闘集団(部族)がいたという話がある。「アマゾン」はブラジルの「アマゾン川」のイメージが強いこともあり、日本では複数形の「アマゾネス」で呼ばれることがほとんどだ。
黒海周辺にいた部族とのことで、男性社会だったギリシャにとってはかなりの脅威だったらしい。戦闘集団なので、当然みな、肉体は筋骨隆々に鍛え上げられている。神話なので真偽のほどは定かではないが、弓矢を射るのに邪魔だという理由で右の乳房を切り落とし、男と見れば殺すか奴隷にするかのどちらかだったという。
いったい何をいっているのかと思われるかもしれないが、競馬の世界に「貴婦人」という名の「アマゾネス」がいたという話である。
さて、話は変わるが…。
順調なとき、余力のあるときにこそ、将来に向けたさらなる発展への投資をしなければならない。資本主義社会でビジネスを続ける以上、これは鉄則と言える。事業の継続性、いわゆる「サスティナビリティ」が叫ばれて久しい。どんなにうまくいっている事業でも、先行投資を怠れば、その地位はやがて他社や他業種に取って代わられる。事業の継続とは、過去の繰り返しではなく、未来への働きかけによってなしうるものだ。
競馬の世界、とくに馬の生産についてはなおさらそういえる。ある馬の血脈が隆盛を極め、栄華を謳歌すればするほど、その系統は爆発的に増えていく。ブラッドスポーツである競馬において、近親交配はご法度だ。隆盛を極める血脈が栄えれば栄えるほど、まったく違う血統の馬が必要となる。
日本では「サンデーサイレンス系」といってもいいくらいに、サンデーサイレンスの血を引く馬たちが繁栄している。競走成績はもちろん、その能力の遺伝力にも長けているようで、生まれてくる仔馬たちが次々と好成績をあげている。日本の生産界はあっという間に「サンデーサイレンス系」で溢れかえった。
この状況に対応するための最善かつ最速の方法は、サンデーサイレンスの血を持たない繁殖牝馬を買ってくるというものだろう。もちろん、好成績あるいは繁殖牝馬として期待できる血統の馬である必要がある。サンデーサイレンスの血を引かず、かつその条件を満たす馬を探すとなれば、どうしても海外に目を向けざるをえない。
ノーザンファーム副代表で、サンデーレーシング代表でもある吉田俊介氏も、当然、そう考えたはずだ。押しも押されもせぬ大牧場でも、いや大牧場だからこそ、サスティナビリティのための先行投資の重要性を十分に理解していた。ノーザンファームに隣接する社台スタリオンステーションに繋養されていたサンデーサイレンス。その仔や孫たちの活躍に心躍らせながらも、同時に「血の飽和」への警戒心も大きくなっていったに違いない。
吉田俊介氏は2006年、イギリスへと飛び、タタソールズ・ディセンバーセールで「ドナブリーニ」という繁殖牝馬を落札する。2歳時の2005年にイギリスのG1チェヴァリーパークステークスを勝った馬だ。落札価格は50万ギニー(イギリスの競馬のセリ市では「ポンド」ではなく、昔の通貨単位「ギニー」が使われる)。当時の為替レートで約1億2000万円。生産界の雄ノーザンファームといえども、けっして安い投資とはいえない。
のちに吉田俊介氏も「高かったが、頑張って買った甲斐があった」と語ったように、かなり思い切った投資だったようだ。だが、一般企業も馬の生産者も、現状維持はすなわち後退を意味する。そのことが十分にわかっているからこその投資だった。
そして、この50万ギニーのドナブリーニは、初年度にディープインパクトの仔を宿し、翌年、鹿毛の牝馬を産んだ。これがのちに重賞2勝、ヴィクトリアマイル2着、マイルチャンピオンシップ3着と活躍するドナウブルーだ。
ドナブリーニは、2年連続でディープインパクトの仔を宿し、2年目に生まれたのも姉と同じく鹿毛の牝馬だった。この2年目の牝馬が、やがて競馬の歴史を塗り替え、多くの人を魅了することになるのである。
(2章につづく)
▲ netkeiba Books+ からジェンティルドンナ “貴婦人”という名の女丈夫の1章、2章をお届けいたします。
第2章 将来を決める分水嶺となったシンザン記念での勝利
ドナブリーニの第2仔の牝馬は、2009(平成21)年2月20日、北海道勇払郡平取町のノーザンファームで生まれた。のちに自厩舎で管理することになる石坂正調教師は、当歳の頃に見た印象について、「ディープインパクト産駒にしては大きな馬だな」と感じたという。
ディープインパクト自身、あまり大きくなかったこともあってか、産駒も比較的小さな馬が多かった。また、全姉ドナウブルーも比較的小さい馬だったので、石坂師もそのイメージをもっていたのだが、意外にがっしりとした馬で驚いたようだ。
馬主は、ノーザンファームの副代表も務める吉田俊介氏が代表の有限会社サンデーレーシング。いわゆる「一口馬主」のクラブ法人である。「一口馬主」としての募集価格は1口85万円(40口)。最長10回の分割払いが可能なことを考えると、サンデーレーシングのなかでは比較的出資しやすい、お手頃な価格だったといえるかもしれない。
「貴婦人」という意味のイタリア語から「ジェンティルドンナ」と名付けられたこの馬は、2011年の夏、石坂厩舎に入厩した。
このときすでに、前出の1歳年上の全姉ドナウブルーも同馬主で同厩舎に所属しており、シンザン記念(G3)5着、フィリーズレビュー(G2)4着、ニュージーランドトロフィー(G2)6着と、重賞でそこそこ走る馬という評価だった。姉の戦績から、ジェンティルドンナもある程度はしっかり走ってくれるのではないか。関係者たちの、そんな期待を背負っての入厩だった。
デビュー戦は、2011年11月19日の京都競馬場、2歳新馬(芝1600m)。レース前、石坂氏は「姉よりもおっとりした気性で普段から調整しやすく、馬格もある。先々まで楽しみな馬」とコメントしている。姉のドナウブルーは気性が激しく、レースでも出遅れる場面があったが、妹のジェンティルドンナは(この時点では)「貴婦人」の名にふさわしく、おっとりとしていて、落ち着いた性格だった。
調教での動きもよかったジェンティルドンナは、単勝2.1倍の1番人気に推された。この日の京都は雨。不良馬場でのレースとなった。
好スタートから中団まで下げる。馬群がかたまり、終始、外を走らされる展開となる。直線伸びてはいるものの、逃げたエイシンフルマークの脚色が衰えず、2馬身差の2着でゴールした。
次戦は、12月10日の阪神競馬場、2歳未勝利、芝1600m。調教での動きもよく、単勝1.6倍の1番人気に推された。馬場は良馬場。切れ味鋭いジェンティルドンナの末脚が生かせるコンデションといえた。
レースは、好スタートから2、3番手での競馬となった。3、4コーナー中間あたりでは、5番手の位置。インコースから直線に向くが、やや前が詰まる形になる。それでもここでは力が違った。前を割る形で抜け出すと、さらに加速。最後は2着に3馬身半の差をつけ、初勝利を飾った。
次戦は年明け、2012年1月8日の京都競馬場、シンザン記念(G3)、芝1600m。このレースは、前年に全姉ドナウブルーが出走し、1番人気に推されながら5着に敗れたレースだ。直前の追い切りでは併せ馬の未勝利馬に遅れをとったものの、それまでは順調に乗り込まれてきており、担当の日迫真吾厩務員(調教助手)は「中間、しっかり調教を積めて状態は変わりないし、今のところ課題らしい課題もない。重賞でどんなレースをするか楽しみ。センスのいい馬だし、力を出し切れれば好勝負できる」と期待十分のコメントを発している。
人気は単勝4.0倍の2番人気。1番人気は、朝日杯フューチュリティステークス(G1)4着のトウケイヘイローだった。ジェンティルドンナは好スタートで前方からの競馬となる。道中、やや抑えて、4番手あたりに落ち着く。
直線、内に持ち出し、先行集団を捉えると、一気に先頭に立つ。そのまま押し切り、1馬身1/4差で勝利。牝馬がシンザン記念を勝ったのは、1999年のフサイチエアデール以来13年ぶり。前年、姉が勝てなかったレースを強い勝ち方で勝利したことで、今後の展望も大きく開けていくことになった。
2012年シンザン記念
(続きは
『netkeiba Books+』 で)
- ジェンティルドンナ “貴婦人”という名の女丈夫
- 第1章 サンデー系の「血の飽和」を緩衝する役割
- 第2章 将来を決める分水嶺となったシンザン記念での勝利
- 第3章 ところどころに素質の片りんをうかがわせた若駒時代
- 第4章 桜花賞から始まったヴィルシーナとの激闘譜
- 第5章 生みの苦しみを味わいながらも史上4頭目の3冠制覇達成
- 第6章 オルフェーヴルを撃破し、現役最強の座へ
- 第7章 好走しながらももがき続けた4歳時
- 第8章 世界の名手の手によって導かれた史上初のJC連覇
- 第9章 試行錯誤を続けながらも砂漠の地で前年の雪辱を果たす
- 第10章 勝利で自身の引退に彩りを添えたラストラン