柴田政人師、伊藤正徳師が引退。忘れてはならないホースマンの足跡
馬事公苑長期騎手課程の「花の15期生」と言われた柴田政人調教師と伊藤正徳調教師が、今月末に定年を迎える(以下、敬称略)。
騎手時代「勝負師」と呼ばれた柴田政人は、1993年5月30日、ウイニングチケットで日本ダービー初制覇を果たした。
「世界のホースマンに、今年のダービーを獲った柴田です、と報告したいですね」
デビュー27年目、19度目のチャレンジで悲願を果たし、そう語った。19度目というのは、昨年、福永祐一に並ばれたが、ダービーを制するまでの最多騎乗記録である。
その福永の父で、1970年から78年まで9年連続リーディングジョッキーとなり「天才」と呼ばれた福永洋一も、「皇帝」シンボリルドルフとのコンビで名を馳せ、2005年に当時の通算最多記録である2943勝で鞭を置いた岡部幸雄も、「花の15期生」のメンバーである。
柴田に関するエピソードとして、もうひとつ、つとに知られているのは、アローエクスプレスの乗り替わりだ。
柴田が騎手としてデビューしたのは1967年のことだった。3年目の69年、翌年のクラシックを狙える逸材、アローエクスプレスに出会う。9月の新馬戦から翌70年、彼にとって重賞初制覇となる京成杯まで破竹の6連勝を遂げた。そのうち、京成杯3歳ステークスと朝日杯3歳ステークス(ともに旧馬齢)では加賀武見が騎乗した。柴田より11歳上の加賀は、62年から66年、68、69年に日本リーディングとなった当時のトップジョッキーである。
京成杯の次走、スプリングステークスも柴田が騎乗したが2着に敗れた。それでも彼は、この馬でのクラシック制覇を夢見ていた。しかし、皐月賞直前、加賀への乗り替わりが決まった。師匠の高松三太が、弟子を逆境に強い騎手にするため与えた試練であった。
加賀を背にしたアローエクスプレスは頭差の2着に惜敗した。乗る立場から見る立場になった柴田の心境は複雑だったはずだが、後年訊いてみると、自分のお手馬だったアローを普通に応援していたという。
8年後の78年、柴田はファンタストで皐月賞を勝ち、クラシック初制覇を果たす。
その後も、天皇賞馬プリテイキャスト、二冠馬ミホシンザン、フレッシュボイス、イナリワン、ホワイトストーン、そして前出のウイニングチケットといった名馬の背で存在感を見せつづけた。
しかし、ダービージョッキーとなった翌年の94年春、落馬で左腕神経叢損傷となり休養、復帰を目指してリハビリに励んでいたが、断念。9月6日に会見を行い、引退を発表した。
通算の勝ち鞍は、引退発表当時、増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ歴代3位の1767勝、うち重賞は89勝。GI級は15勝。
岡部が鐙を短くし、馬の首に近い部分に重心を置くアメリカンスタイルだったのに対し、柴田は、全身を大きく使うヨーロピアンスタイルで馬を動かした。「名手」と「勝負師」は好対照だったからこそ、岡部・ビワハヤヒデと柴田・ウイニングチケットが激突した93年クラシックのような「ライバル対決」は見応えがあった。
柴田は96年、美浦に厩舎を開業。先週までにJRA通算191勝を挙げている。
伊藤正徳は、ダービー8勝を含む通算1670勝を挙げ「大尾形」と呼ばれた伯楽・尾形藤吉の最晩年の弟子であった。
伊藤は、子供のころ、関西で調教師をしていた父の伊藤正四郎と離れて暮らし、美容室を経営していた母と2人の姉とともに旧静内町で育った。自分専属の美容師見習のお手伝いさんがいた「お坊っちゃま」だった彼の将来の夢はF1レーサーだった。ところが、小学校6年生のとき、父が「自分の跡を継いでくれ」と遺言を残して亡くなり、急きょ騎手を目指すことに。単身兵庫に行き、義兄の伊藤雄二のもとから中学に通い、64年、馬事公苑に入苑。66年、尾形厩舎所属の騎手見習となり、68年にデビューした。
「岡部や柴田からは、ぼくが尾形厩舎に所属したことを羨ましがられましたが、ぼく自身は何も知らないお坊っちゃまだったので、そのすごさをわかっていなかった(笑)。師匠の偉大さを理解したのは、あとになってからでしたね」
77年、ラッキールーラを駆り、28歳の若さでダービーを制覇。同期で一番乗りの勝利を果たし、史上2組目の父子ダービージョッキーとなった。
さらに、メジロティターンで82年の天皇賞・秋を勝つなど重賞17勝を含む通算282勝を挙げ、87年に騎手を引退。翌88年、美浦に厩舎を開業する。99年にエアジハードで安田記念とマイルCSを制したほか、ローエングリン、ネヴァブションなどの活躍馬も管理。先週までJRA通算518勝をマークしている。
所属騎手に後藤浩輝がいた。
後藤が世を去ってから、来週水曜日、2月27日で4年になる。
忘れたくない、忘れてはならないホースマンの足跡を、しっかりと胸に刻みたい。