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【引退/中村均調教師】特別インタビュー(1)「“小さなものが大きなものを負かす”岡田繁幸氏と共鳴した競馬のロマン」

  • 2019年02月25日(月) 18時02分
今週のface

▲2/24(日)に阪神競馬場で行われた引退セレモニーにて (C)netkeiba.com


2月28日をもって引退する中村均調教師。JRA最後の出走となった2/23(土)にはトラストが春麗ジャンプSを、24(日)にはタガノカレンが小倉の500万下を勝利。同日の阪神競馬場で引退セレモニーが行われました。中村師の足跡をたどるインタビューを、2/25(月)〜28(木)の4日連続でお届けします。

中村師は、若干28歳の若さで調教師試験に一発合格という経歴の持ち主。調教師人生は42年におよび、1984年にオークスをトウカイローマンで勝利。2012年の天皇賞・春では、14番人気のビートブラックでも大金星を挙げました。

長い調教師人生で決して曲げることのなかった信条があります。「三流、四流の馬で一流馬を負かす」。その信条を体現させた立役者こそが、“マイネル”の岡田繁幸オーナーでした。今回はふたりの秘話に迫ります。

(取材・文=不破由妃子)


【新規開業】厩舎を引き継ぐ愛弟子の長谷川浩大調教師のインタビューも好評掲載中

人生を賭けてきた仕事がなくなるのは寂しい


──引退の日まで10日を切りました(取材時点)。42年におよぶ調教師人生がいよいよゴールを迎えるわけですが、現在はどんな心境ですか?

中村 正直、定年の日がこなければいいなとずっと思っていました。芦屋雁之助さんの『娘よ』という歌で、「嫁に行く日がこなけりゃいい」っていう歌詞があるけど、まさにそんな感じでね。

 こうしてだんだん近づいてくると、やっぱり複雑な心境になりますね。もうやり遂げたというか、ちょうどいい頃かなとも思うんだけど、人生を賭けてきた仕事がなくなるというのは、やっぱり寂しいなというのが正直な気持ちです。

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▲愛弟子の長谷川浩大調教師のほか、武豊騎手、福永祐一騎手らも集まった (C)netkeiba.com


──先生は29歳という若さで厩舎を開業されたんですよね。調教師試験は28歳にならないと受けられませんから、一発で合格されたということ。最近は若い調教師さんが増えましたが、当時も含め、一発で合格というのはかなり珍しいケースでは?

中村 僕の場合は、いろいろ条件が揃っていましたからね。麻布獣医科大学(現・麻布大学)を出て獣医師の資格を持っていたので、当然、その分野の知識はありましたし、父親(中村覚之助氏)が調教師だったので、早くからその父親の元で調教師の帝王学のようなものを学べましたから。父親は体があまり丈夫ではなかったので、最後のほうはほとんど僕に任せてくれましたしね。

──お父さまが調教師ということで、将来的に競馬に携わることを視野に獣医師の資格を取られたんですか?

中村 子供の頃からとにかく犬が好きだったんだけど、それとは別に、将来の夢はビルの設計士になることだったんです。それで工業大学の付属中学に入って、ずっと設計士を目指して勉強していたんだけど、いよいよ大学受験が始まるというときになって、「やっぱり犬が大好きだし、獣医になりたいなぁ」と心変わりしてね。それで麻布獣医に入学したわけで、当時は動物病院の先生にでもなろうかなと思っていました。

──そうだったんですね。そこから競馬界に入るまでには、どんな経緯があったのですか?

中村 大学で馬術部に入ったんです。それで馬に乗り始めたら、すっかり面白くなってしまって。でも、大学を卒業するときには、将来についてかなり迷いました。

 僕は獣医の資格のほかに、中学・高校の教員免許も持っているんですけど、大学時代に行った教育実習が楽しくて、教師に気持ちが傾いたこともあったんです。加えて、大学の教授からは大学に残ることを強く勧められたりしてね。それと、もうひとつが競馬界。だから、4つの選択肢があって、ずいぶんと迷いましたね。

開業時の苦労、未勝利馬たった6頭からのスタート


──ものすごく多才でいらっしゃるんですね! そんな先生が競馬界を選んだ決め手はなんだったのですか?

中村 やっぱり馬の魅力というか、競馬の魅力に取りつかれたんでしょう。それに、自分にはホワイトカラーは合わないだろうなという気持ちもありました。それで、ほかの道はすべて蹴って、この世界に入ったんです。

 今は実務経験を経て競馬学校に入る必要がありますけど、当時は競馬学校なんてなかったら、大学を卒業したらすぐにこの世界に入れたんですよ。そのぶん、28歳で調教師試験を受けるまでに勉強する時間もあったし、経験も積めましたからね。

──開業時は、未勝利馬6頭からのスタートだったそうですね。

中村 はい。当時は、今のように故障した馬と外にいる元気な馬を入れ替えるということがなかったので、故障してもそのまま厩舎に置いていたんです。だから、6頭のうち3頭くらいは故障した馬だったなぁ(苦笑)。

 なにしろ3頭しか競馬に使えないから、その3頭を使ったら、次のレースまで平気で1カ月くらい空いてしまってね。1年後くらいに10馬房になったんだけど、今のように毎年増えていくシステムではなかったので、20馬房になるまでに10年掛かりましたね。

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ジョッキーや調教師など、毎週“旬”な競馬関係者にインタビュー。netkeiba特派員がジョッキーや調教師、厩舎スタッフなど、いま最も旬な競馬関係者を直撃。ホースマンの勝負師としての信念から、人気ジョッキーのプライベートまで、ここだけで見せてくれる素顔をお届けします!

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