「平成」時代も残りあと8日となった。筆者は基本的に元号を使用しない立場だが、この30年と4カ月足らずの間に、日本の競馬界に途方もない変化の波が押し寄せたことも事実だ。本稿では、この時期にあった幾多のレース、事件から個人的に5件を選び、それぞれの案件の歴史的意味を振り返ってみる。
【5】オグリキャップ 有馬記念で引退飾るV (1990・12・23)
▲平成を代表するスターだった人馬 (C)netkeiba.com
1990年末と言えば、日本のバブル経済が天井を打ってちょうど1年だが、社会の浮ついた雰囲気は続いていた。競馬界が右肩上がりの成長に沸いたのも、こうした雰囲気に支えられていた。当時を象徴するのがオグリキャップと武豊。オグリキャップは88年に岐阜・笠松から中央に移籍し、多くの名勝負でファンを魅了した。武豊は87年のデビューで2年目(昭和63年)にGI(菊花賞=スーパークリーク)制覇、3年目(平成元年)に早くも最多勝となった。
今振り返っても、この人馬が平成を代表するスターだったことは間違いない。その後も名馬は次々に現れ、武豊の樹立した記録の多くは、クリストフ・ルメールの手で昨年、書き換えられた。だが、社会的な影響力は別問題だ。90年のJRAの売り上げは前年比21%増で初めて3兆円の大台を突破。ここから4兆円まで7年を要しただけ。オグリキャップの余熱と武豊の活躍抜きにはあり得ない。
オグリキャップには笠松で安藤勝己など3人が、中央では6人が騎乗したが、武豊は90年の安田記念(優勝)と有馬記念の2回乗っただけ。武の認識は「難敵」だっただろう。だが、90年秋の2戦で惨敗を喫した後、再度のコンビ結成。17万7779人という中山としては空前の観衆の前で、好位から抜け出し、曲折の多かった競走生活の大団円を飾った。
実は筆者はこの場面を現場では見られなかった。出張で任地の長野から東京に来ていたが、当日はテレビ観戦だった。取材で現場を踏んだのは翌年のジャパンCが最初だったが、前年の熱はなかった。専業になった97年には、斜陽産業化の影が忍び寄っていた。
武豊は競馬界のアイコンとしての地位を固め、トップ騎手の座を20年守った。オグリキャップは種牡馬として成功できず、地方競馬が衰退の前に送り出した最後のスター馬として、競馬史にその名を残すことになった。
【4】「怪物市場」セレクトセール発足 (1998・7・13)
▲ノーザンホースパークで目にした「億の祭り」 (C)netkeiba.com
日本の競走馬流通に革命を起こしたセレクトセール(日本競走馬協会主催)開幕の前日は、出来事の多い日だった。昼は宝塚記念でサイレンススズカが念願のG1初勝利。夜には当日投開票の参院選で自民党が歴史的惨敗を喫し、橋本龍太郎首相(当時=故人)が退陣。深夜(日本は日付が変わっていた)にサッカーW杯フランス大会決勝でフランスがブラジルを3-0で破り、初優勝を飾った。
筆者は13日朝、大阪から北海道苫小牧市に飛び、ノーザンホースパークで「億の祭り」を目にした。上場番号13番の父サンデーサイレンス、母バレークイーンの当歳馬(牡=ボーンキング)を1億4千万円で今は懐かしい関口房朗氏が落札すると、その後はサンデー産駒の激しい争奪戦が続き、14日には近藤利一氏が母ファデッタ(牡=アドマイヤセレクト)を最高価格の1億9千万円で落札。2日間で1億円突破が7頭を数え、6頭はサンデー産駒だった。国内セリ市場で、落札価格1億円(税抜き、以下同)以上はそれまで7頭で、2日で同じ数の1億円馬が生まれた。
当時の生産界を取り巻く環境は極めて厳しかった。バブル崩壊後の産地不況で、97年8月市場(現在のHBAサマーセール)の売却率は22.7%。97年11月には北海道拓殖銀行、山一證券が次々に経営破綻し、金融危機が表面化。参院選の結果もこの余波だった。セリ当日は選挙結果の影響が懸念されていた。
この時期にセールが始まったのは、生産界が業界活性化策として市場振興を掲げた流れに呼応していた。コース上でのサンデー産駒の活躍は、セールの成功を保証した。生産界全体の苦境はその後も続いたが、翌年のセレクトセールにはアラブ首長国連邦・ドバイのムハンマド首長の代理人も参戦。
その後は、サンデー産駒の威光にノーザンファーム(NF)の攻撃的マーケティングも相まって国際色を増し、世界有数の市場として定着した。キングカメハメハ、ディープインパクトもこの市場で落札され、コースでの活躍を経て、日本の生産界を支える種牡馬となった。昨年の売却総額は179億3200万円で第1回の 3.7倍。途中、リーマンショックによる停滞期もあったが、NFの覇権確立を後押しした。
【3】ウオッカ 牝馬で64年ぶりダービー制覇 (2007・5・27)
▲四位騎手の初ダービー制覇はまさに歴史的快挙に (撮影:下野雄規)
4月1日、ウオッカが15歳でこの世を去った。交配のために滞在していた英国ニューマーケットで3月10日、右後脚を粉砕骨折していたのが発見され、手術を受けたが蹄葉炎を発症。安楽死の措置が取られた。
ウオッカは平成後半の「牝馬の時代」のトップランナーだった。同年齢のダイワスカーレットとともに、牡馬混合のGIを次々に制した。7つのGIタイトルのうち6つが東京施行。1600、2000、2400という基幹距離を総なめし、牝馬限定戦は2つだけ。後から振り返ればダービーを勝つのも必然という気がするが、むしろダービーにこのクラスの牝馬を送るという発想自体の方が型破りと言えるだろう。
ライバル・ダイワスカーレットを前哨戦で降したが、肝心の桜花賞で負けた。この状況で牡馬との対戦を選んだ角居勝彦調教師、受け入れた谷水雄三オーナーの決断が歴史を変えた。実戦は内寄りの3番枠から中位を進み、直線で馬群をさばいて伸び、残り100mで抜け出し、2着に3馬身差の圧勝を飾った。
この結果に触発されたように、その後の主要GIで牝馬が牡馬を圧倒する場面が相次いだ。08年有馬記念のダイワスカーレット。09年にはウオッカがジャパンCを優勝。2歳下のブエナビスタは10年秋の天皇賞、11年のジャパンCを制覇。ジェンティルドンナは12、13年のジャパンCと引退レースの14年有馬記念を勝ち、海外を含めてGIを7勝。09年から15年までのジャパンC7回中、牝馬が実に6回も先頭でゴールに入った。10年のブエナビスタは1位入線後2着降着となったが、今日の裁決基準なら降着はなかったはずだ。
世界的に見ても、ここ十数年のスターには牝馬が非常に多い。欧州ではトレヴとエネイブル(現役)、豪州では25戦無敗のブラックキャヴィア、33連勝と平地GI25勝で有終の美を飾ったウィンクス、米国ではゼニヤッタ(20戦19勝、GI13勝)も出た。そして今、日本をリードするのはアーモンドアイだ。
気になる点もある。この時期は牡馬のスターが現れず、「相手が弱かった」ことは否めない。もう一つは、牧場に帰ったスター牝馬が、活躍馬を出せていない点。ウオッカも7頭の産駒を残したが、GIII入着のタニノフランケル(父フランケル)が目立つ程度。現役時代の激戦の後遺症を考えざるを得ない。
【2】中央・地方発売協力拡大を発表 (2010・12・2)
▲地方競馬の「廃止ドミノ」を食い止めるべく (撮影:高橋正和)
中央と地方の関係は、平成年間に大きく変わった。岐阜・笠松のライデンリーダー=安藤勝己騎手のコンビの活躍(95年)や、岩手・水沢のメイセイオペラのフェブラリーS制覇(99年)は、競馬の内なる国際化と言える中央・地方の人馬の交流拡大の結果だった。だが、地方側の業績悪化は馬資源、人的資源の両方を空洞化させ、今世紀に入ると大分・中津を皮切りに「廃止ドミノ」が始まる。
地方支援策の模索が続いたが、折あしくと言うべきか、JRAも特殊法人改革を受けた組織形態問題に直面しており、丸抱え的な地方支援を押しつけられることを警戒。05年の競馬法改正で相互の発売協力に道を開く相互の業務受委託が解禁されたが、組織形態問題が片付くまで、具体的な動きはなかった。
沈黙が破られたのが10年12月。JRAと地方競馬全国協会(NAR)、全国公営競馬主催者協議会(全主協)の3者が東京・浜松町で会見し、(1)JRAの電話・ネット投票による地方の主要競走発売 (2)地方の競馬場、場外施設でのJRA競走発売――の2点を発表した。
そもそも、中央と地方の関係者が同じ席で何かを発表する自体が、全く異例だった。JRAのネット投票による地方発売は12年10月に始まったが、それに先立って川崎や浦和は「ウインズ」の看板を掲げて中央発売に着手。川崎は地方の共同トータリゼータ(発売票数計算システム)の稼働前に、独自システムを構築して全場全レースを発売するという思い切った策に出た。「自場の売り上げが食われるのは覚悟の上」と腹を決めたのだ。
発表の翌年には東日本大震災があり、一部施行者の危機はさらに深まったが、JRAのネット発売は救世主となった。通年稼働初年度の13年(14年3月まで)に281億5689万2500円だった売り上げは、18年度が908億8749万8900円と3.2倍に急伸。この間に残存する全施行者が黒字に転換し、高知のように売り上げを底の時点から11倍に伸ばすV字回復も見られた。地方全体の売り上げは18年度、19年ぶりに6000億円を突破したが、JRAのネット投票による売り上げが15%を占める。
この30年は中央・地方関係が劇的に変化した時代だった。共存の成果は大きかったが、そこまでの長い過程で力尽きた施行者も多かった。また、業績は回復したとは言え、地方の馬資源、人的資源を巡る状況はむしろ、厳しさを増している。次の危機までに、地方がどこまで体力を回復するかが今後の課題だ。
【1】エルコンドルパサー 凱旋門賞2着 (1999・10・3)
▲1999年、エルコンドルパサーの引退式 (ユーザー投稿写真:エリーさん)
4月17日、アーモンドアイの凱旋門賞断念が馬主のシルクレーシングから発表された。「コース・距離・斤量、そして初めての環境と全てがタフな条件となる」ことから、「ベストのレース選択ではない」との結論に達したと、米本昌史社長名の文書で表明した。
代わりに、というべきか、同じNF生産の皐月賞馬サートゥルナーリアの遠征話が早くも浮上している。だが、同馬も斤量(56kg)を除けば、全てタフな条件なのは同じだ。凱旋門賞が真の世界の競馬の頂点かどうかは、議論の余地があるが、少なくとも日本馬はまだ勝てていない。何を犠牲にすれば、未踏峰を極めることができるのか? 近年、この問いへの厳しい省察が欠けている気がする。
20年前、「勝つための犠牲」を実践したのが、エルコンドルパサーの陣営だった。競走馬の旬である4歳時に、国内で賞金を稼ぐ機会を捨てた。2-3歳時7戦6勝(うちGI2勝)の成績でフランスに長期遠征した。筆者は同国での4戦中、7月のサンクルー大賞(GI・芝2400m)と凱旋門賞本番を見た。完璧な運びで制したサンクルー大賞は、今なお、日本馬が欧州の2000m以上のGIで挙げた唯一の勝利として残る。
そして凱旋門賞。内枠から押し出されるように逃げた。斤量が3.5kg軽いモンジューが直線で他馬を弾き飛ばして進路を確保し、エルコンドルパサーに迫る。一度は差し返したが、再び前に出られて力尽きた場面は、今でも忘れられない。
今世紀に入って、日本(産)馬は確かに強くなった。いつしか「スポットで遠征して勝つ方が意味がある」といった声も出始めた。だが、海外GI31勝中、北米と欧州は各1勝のみ。賞金額の割に敷居が低いアジア圏が大半である。凱旋門賞も賞金自体は高額だが、欧州を主導する勢力の間で展開される「繁殖価値極大化ゲーム」の主戦場に他ならない。目先のカネにこだわっていて勝てるのか? 未踏峰を極める馬が出なかった20年は、競馬界に改めて、この問いを突きつけている。
※次回の更新は5/27(月)18時を予定しています。