スマートフォン版へ

豪州の歴史的名馬マイトアンドパワーが12日に死亡

  • 2020年04月15日(水) 12時00分

2年連続で年度代表馬に選ばれる活躍

 
 オーストラリアにおける歴史的名馬マイトアンドパワーが、12日(日曜日)未明に天に召された。

 同馬は、余生を過ごしていたメルボルン近郊の「リヴィング・レジェンズ」で、11日夜に疝痛の発作を発症。緊急手術を施すために、ウェリビー・エクワイン・センターに搬送されたが、残念ながら助からなかった。享年26歳だった。

 マイトアンドパワーはニュージーランド産馬だが、その物語の序章が綴られたのはイギリスのニューマーケットである。アイルランドを拠点に2シーズンにわたって現役生活を送り、12戦1勝、フェニックスパークの牝馬限定のLRファシグテイプトンS(芝8F)3着などの成績を残したベネディクション(当時4歳)という牝馬が、1989年のタタソールズ・デイセンバー牝馬セールに上場され、ニュージーランドを拠点に馬産を営むネルソン・シック氏に1万7千ギニー、当時のレートで約400万円で購買されている。

 価格から推して知るべしだが、ベネディクションの牝系は当時、栄えているとは言い難く、その母カテドラは未勝利馬。ベネディクションの1歳年下の半妹に、アイルランドにおける2歳牝馬限定のG3パークS(芝7F)勝ち馬タンタムエルゴがいるのが目につく程度だった。

 だがこれ以降、このファミリーは急速に活気づくことになる。マイトアンドパワーが出現しただけでなく、ベネディクションの初仔ミスプライオリティの4番仔となるラッキーオーナーズが、G1香港マイル(芝1600m)を制したのは、2003年のことだった。

 さらに、ミスプライオリティの孫にあたるモシーンが、3歳となった11/12年シーズンに、G1クラウンオークス(芝2500m)など4つのG1を制する大活躍を見せた。そのモシーンの2番仔が、昨年のG1ヴィクトリアマイル(芝1600m)2着馬で、2月9日のG3東京新聞杯(芝1600m)で牡馬を撃破し3度目の重賞制覇を果たしたプリモシーンである。あるいは、マイトアンドパワーの9歳年下の半妹バステッドは、仏国で現役生活を送って重賞入着を果たした後、母となって12年のG1仏1000ギニー(芝1600m)勝ち馬ビューティーパーラー(父ディープインパクト)を産んでいる。

 だがこれらは、すべて後年の話である。それではなぜネルソン・シック氏はベネディクションの購買を決めたかと言えば、それが、遡れば伝説の名馬ハイペリオンが出ているファミリーであり、シック氏がニュージーランドに持つウィンザーパークスタッドで供用されていたリーディングサイヤーのスターウェイもまた、同じファミリーの出身だからであった。

 そのウィンザーパークスタッドに移動したベネディクションの3番仔として、1993年10月に生れたのがマイトアンドパワーだ。父は、同じニュージーランドのケンブリッジスタッドで繋養されていたザビールだった。

 ザビールがスタッドインしたのは1991年だから、マイトアンドパワーはその2世代目の産駒となる。すなわち、その後、オーストラリア・ニュージーランドでリーディングの座に計6度就くことになる名種牡馬ザビールの評価が、まだ定まっていなかった時の子なのだ。

 父も牝系も、その後の成功を先取りする形で生まれたのがマイトアンドパワーだったのである。同馬は、イングリスイースターセールに上場され、セリ会場では主取りになった後、ポストセールでリザーヴ価格だった4万豪ドル(当時のレートで約310万円)で買い手が付いた。購買したのは、カップキングの異名をとる伯楽バート・カミングスの子息で、自身も調教師として成功していたアンソニー・カミングスだった。

 2歳になると間もなく去勢されてセン馬となった同馬は、アンソニー・カミングス厩舎から2歳シーズンの終盤にデビュー。3歳春まで4戦1勝の成績を残したところで、馬主のニック・モレイティス氏がカミングス厩舎に預けていた馬を引き上げることになり、マイトアンドパワーもジャック・デンハム厩舎に転厩となった。

 重賞初挑戦となった3歳秋のG1カンタベリーギニーズ(芝1800m)で2着となり、3歳最終戦のG3パッカープレート(芝2000m)で重賞初制覇を果たした同馬だったが、本格化したのは4歳時だった。

 G1コーフィールドC(芝2400m)をトラックレコードで制してG1初制覇を果たすと、豪州の国民的イベントであるG1メルボルンC(芝3200m)にも優勝。4歳秋も、G1メルセデスクラシック(芝2400m)、G1クイーンエリザベスS(芝2000m)、G1ドゥームベンC(芝2020m)と3つのG1を制覇。このうちドゥームベンCは、トラックレコードを樹立しての優勝だった。

 そして5歳の春には、コーフィールドのG1ヤルンバS(芝2000m)を制したのに続き、これもトラックレコードを樹立してG1コックスプレート(芝2040m)に優勝。コーフィールドC、メルボルンC、コックスプレートの3競走完全制覇は、1954年にライジングファストが成し遂げて以来、44年振り2頭目の快挙だった。

 4歳時、5歳時と、2年連続で豪州の年度代表馬に選出されたマイトアンドパワーは、屈腱炎のため5歳春から1年10か月にわたって休養。7歳春に復帰したものの、2戦していずれも二桁着順に終わり、現役を退いている。

 2002年に豪州の競馬殿堂入りを果たしたマイトアンドパワーは、冒頭でも記したように、メルボルン空港から5分ほどの地点にあるリヴィングレジェンズで余生を過ごした。ビッグレースがあると競馬場に姿を現し、ファンと交流する機会を持っており、筆者もそんな折りに、老いてなお壮健だったマイトアンドパワーに触れる幸運に何度か恵まれている。

 世間が落ち着いたら、彼やアドマイヤラクティが眠るリヴィングレジェンズを、ぜひ訪れたいと思っている。

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

1959年(昭和34年)東京に生まれ。父親が競馬ファンで、週末の午後は必ず茶の間のテレビが競馬中継を映す家庭で育つ。1982年(昭和57年)大学を卒業しテレビ東京に入社。営業局勤務を経てスポーツ局に異動し競馬中継の製作に携わり、1988年(昭和63年)テレビ東京を退社。その後イギリスにて海外競馬に学ぶ日々を過ごし、同年、日本国外の競馬関連業務を行う有限会社「リージェント」を設立。同時期にテレビ・新聞などで解説を始め現在に至る。

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング