先日、久しぶりに理髪店で散髪した。担当理容師は「ガッキー」というニックネームの20代半ばの男子である。何カ月か前に行ったとき、私は、自分の顎と首の境目あたりに埋没毛が生じ、虫刺されのように腫れた話を彼にした。皮膚の下でヒゲが3センチほどにまで伸び、トグロを巻いていたのだ。年に一度はできてしまい、消毒した縫い針などを刺して引きずり出すしかない。それを聞いたガッキーは言った。
「ぼく、今それが胸にできているんですよ」
「そりゃ困ったね」と応じた私は、胸のどのあたりなのか気になったのだが、訊く機会を逸したまま数カ月が経過していた。
それを先日、訊くことができた。
「ガッキーの埋没毛、処理できた?」
「はい。寮の壁に刺さっていた画鋲をライターで熱して、それを刺して抜きました」
ワイルドである。余計に部位が気になった。
「埋没毛ができたところは乳首の近くだったの?」
「いや、違います。鎖骨に近いあたりです」とガッキーは恥ずかしそうに笑った。
コロナがなければもっと早く訊けていたのだろうが、あっちでもこっちでも「コロナがなければ」ということだらけである。
コロナがなければ、春はほとんどのGIを現地で取材していたはずだ。が、今年は、入場制限が始まる前だったフェブラリーSと、滞在を短時間にとどめた大阪杯だけだった。
本稿がアップされる8月6日の午後、都内のホテルのラウンジで集英社文庫の担当編集者ハンちゃんと打ち合わせをする。手帳を見ると、彼と会うのは2月27日以来だから、5カ月ぶり以上である。ハンちゃんと一緒に2月には『絆 走れ奇跡の子馬』、先月は『ノン・サラブレッド』を出した。さらに、来年1月から月刊誌で連載が始まり、その担当もハンちゃんだ。これだけ「密」に仕事をしていながら5カ月以上も会わないなんて、コロナがなければ考えられない。
3月にイースト・プレスから上梓した『ジョッキーズ 歴史をつくった名騎手たち』の担当編集者の高見澤秀さんとも、考えてみれば、今年はまだ会っていない。
その一方で、コロナがなければ会うことはなかった、という人に会うこともできた。スポーツ誌のウェブ連載に「無観客競馬つながり」で、1944年に行われた能力検定競走について書くことになったのだが、そのとき現場にいた人に取材することができたのだ。
その人は、87歳と高齢ながら、今も現役で仕事をしている。今回は電話取材をお願いするつもりだったのだが、先方から「会って話をしたい」と言われた。「耳が遠いし、顔を見ていないと上手く話せないから伝わらない」と言うのだ。何度も「いいのですか」と確かめた結果、お住まいの近くのコーヒーショップで話を伺うことになった。
私はコーヒーを口に入れるとき以外はずっとマスクをしており、ゆったりしたソファに腰掛け、大きなテーブル越しに話をした。その人が言うほどには耳が遠いようには感じなかった。コロナ禍のもとでは避けるべきとされている「会って話すこと」を大切にしている人なのだ。店は禁煙だったが、その人はヘビースモーカーで、「タバコを吸う人はコロナにかかりにくいというデータもあるらしいですよ」と笑っておられた。
私にとっては有意義な時間だった。保田隆芳や前田長吉といった戦前・戦時中に活躍した騎手について書くことが多いので、当時の競馬場を知る人から話を聞くことが大きな財産になるのである。
8月になった。大阪で弁護士をしている従兄弟から、「コロナによる遅れを取り戻すため裁判所のお盆休みがなくなったので、今年は北海道に墓参りに行けなくなった」と連絡があった。その従兄弟が島田家の嫡男で、前出の前田長吉の親族でいうと、長吉の兄の孫の前田貞直さんに相当する。貞直さんから見ると長吉は大叔父にあたるのだが、私とその従兄弟の大叔父にあたる島田武雄という人は、かつて函館新聞の記者をしていた。武雄がつくった島田家の家系図を完成させる仕事が残されていることを今思い出し、久しぶりに家系図を引っ張り出した。これもコロナがなければしなかったことかもしれない。
コロナがなければしなかったと思われる大量の資料の整理もしており、1957年に史上初めて無敗で桜花賞とオークスを勝ったミスオンワードに関する資料も出てきた。が、読み返そうとしたら、またどこに行ったかわからなくなってしまった。デアリングタクトの次のレースまでには何とか見つけ出し、競馬史に残る2頭の名牝について、ここに書きたいと思う。