スマートフォン版へ

「第二の馬生も元気に過ごして!」菊沢師が語るミッキースワローの思い出

  • 2021年02月14日(日) 18時02分
ノンフィクション

現在は種牡馬として第二の馬生を送るミッキースワロー(撮影:下野雄規)


昨年の有馬記念の最終追い切り後に脚部不安を発症し、電撃引退したミッキースワロー。その後は種牡馬入りが発表され、優駿スタリオンステーションにスタッドインした。競走馬として重賞3勝を挙げたほか、昨年の天皇賞・春では3着に食い込むなど、第一線で活躍を続けた同馬。管理した菊沢隆徳調教師(51)に現役時代の思い出や、種牡馬としての期待など話を聞いた。

(取材・文=東京スポーツ・藤井真俊)

実はとにかくヤンチャだった! 個性的な素顔


──昨年の有馬記念の当該週。最終追い切りまで消化したミッキースワローでしたが、その日の午後に脚元の不安が判明。翌日、同レースの回避が発表されました。まずは当時の状況を聞かせてください。

菊沢 1度だけ繫靭帯に疲れが出たことはありましたけど、その他は脚元に関してはほとんど心配がなかったんです。ただあの時は追い切り後に屈腱に熱感があって…。正直、驚きました。その前のジャパンCでも速い時計で頑張って走っていましたし、脚元の老化があったのかもしれませんね。

──その後、年が明けて引退と種牡馬入りが発表されました。もともと有馬がラストランで種牡馬入りする予定だったのですか?

菊沢 いえいえ。無事ならばきっと今年も中長距離路線で走っていたと思います。ただ屈腱炎で復帰には時間がかかりそうでしたから、引退の決断となりました。そして(野田みづき)オーナーが“できるものなら種牡馬に…”と動いてくださって、このように繁殖として余生をすごせることになったんです。

──なるほど。短い期間に物事が色々と進んだのですね。長きにわたって大活躍したミッキースワローでしたが、当初から期待は大きかったのですか?

菊沢 う〜ん…。当歳の頃はすばらしい印象でした。ただその後の成長曲線が思い描いていたものとは違って、2歳の春ごろはトモの状態がもうひとつ。これは時間がかかるな…ということで、時間をかけてアプローチを続けて、結局デビューできたのは3歳の2月でした。

ノンフィクション

菊沢師が跨り調教に向かう現役時の姿(撮影:佐々木祥恵)


──その新馬戦こそ5着でしたが、未勝利→ひめさゆり賞と連勝。その頃には随分と馬が良くなっていたのでしょうか?

菊沢 いえいえ。まだ当時は心身のバランスが整っていなかったですね。トモや背腰の状態が良くないにも関わらず、勝ち気な気性で運動神経も抜群なものですから、こちらが気をつけてあげないと、動きすぎてしまうんです。だからジョッキーもしばらくはずっと(菊沢)一樹だったんですよ。

──どういう意味でしょう?

続きはプレミアムサービス登録でご覧になれます。

登録済みの方はこちらからログイン

このコラムをお気に入り登録する

このコラムをお気に入り登録する

お気に入り登録済み

netkeiba豪華ライター陣による本格的読み物コーナー。“競馬”が映し出す真の世界に触れてください。

バックナンバー

新着コラム

アクセスランキング

注目数ランキング