“交流元年”に現れた最強馬
アブクマポーロが2月21日、繋養先の吉田牧場で死んだことが発表された。残念ではあるが、もう29歳になっていたのか、ということに驚いた。
アブクマポーロが3歳でデビューした1995年は、“交流元年”と言われた年。じつはぼくがある競馬雑誌に文章を書くようになって、競馬ライターのようなことを始めたのもその年だった。
それまでほとんどなかった中央・地方の交流レースが一気に増えたことにはワクワクしたが、勝つのは中央馬ばかり。その中でも、ライブリマウントが、続いてホクトベガが、ダート交流重賞で快進撃を続けた。97年、ホクトベガは残念ながらドバイワールドCのレース中の事故で非業の死を遂げたが、その後は、大井のコンサートボーイが、船橋のアブクマポーロが、岩手のメイセイオペラが、次々と地方馬が台頭する時代がやってきた。
アブクマポーロがデビューしたのは、大井の荒山徳一厩舎。デビューが3歳5月に遅れたこともあって、当初はあまり目立つ存在ではなかった。4歳になって、荒山徳一調教師が亡くなられたのをきっかけに、当時の馬主との縁で、開業したばかりの船橋・出川克己厩舎に移籍。条件戦から連戦連勝が始まった。
大井所属の最後のレースから6連勝で重賞初挑戦となったのが、すでに5歳になっていた97年5月、当時は2600mで行われていた大井記念。52kgの斤量にも恵まれたが、堂々1番人気に支持され、6馬身差の圧勝だった。
そして挑んだ帝王賞。断然人気は、プロキオンS、かしわ記念(当時GIII)を完勝といえる内容で連勝していた武豊騎手のバトルライン。2番人気は、その年からGIに格上げされたフェブラリーSを勝ったシンコウウインディ。アブクマポーロは3番人気だった。
逃げたバトルラインが直線でも先頭だったが、3番手につけていた大井のコンサートボーイ、中団からこれに並びかけてきたアブクマポーロ、南関東の2頭が馬体を併せるように叩き合いとなって、バトルラインを抜き去った。アブクマポーロは惜しくもクビ差で敗れたが、勝ったコンサートボーイは、的場文男騎手が今でも生涯最高のレースと語る会心の勝利だった。
馬券が当たったのかどうかまったく記憶がないのだが、とにかくうれしくて、すごいことが起きたと喜んだことははっきりと覚えている。この年4月から中央・地方のダート交流重賞で共通の格付けが行われ、交流元年と言われた95年以降の交流重賞では初となる地方馬のワンツー。それがGIの帝王賞で達成された。
芝のオールカマー(中山)にも挑戦したアブクマポーロだったが8着。あらためてダートで中央挑戦となった11月の東海ウインターS(現・東海S)は堂々の1番人気。勝負どころで前が一団となって、アブクマポーロは4コーナーでもまだ10番手。しかし直線では外から目のさめるような伸びを見せ、ラチ沿いからゴール前で抜け出したトーヨーシアトルを差し切った。ダート現役最強はアブクマポーロで間違いない、と思わせる一戦だった。
そして南関東で凱旋出走となった東京大賞典は1番人気。しかしアブクマポーロは、トーヨーシアトルの3着に破れた。石崎隆之騎手は「僕が下手なんですよ」と話したが、アブクマポーロに2800mは長かった。東京大賞典が2800mで争われたのはこの年が最後だった。
明けて6歳、98年は、アブクマポーロがダート最強をゆるぎないものとした年となった。
川崎記念、ダイオライト記念、かしわ記念、帝王賞、NTV盃(現・日本テレビ盃)ほか、地方重賞を含め6連勝。2着馬との着差がもっとも小さかった帝王賞でもバトルラインに1馬身半。その強さは圧倒的なものだった。
盛岡に遠征したマイルチャンピオンシップ南部杯でも、アブクマポーロが負ける場面は想像できなかった。しかし好スタートを切った地元のメイセイオペラが後続を寄せ付けず、コースレコードで逃げ切り勝ち。前年の覇者タイキシャーロックをマークする位置で追走したアブクマポーロは、ゴール前でようやくタイキシャーロックに並びかけたまで。4着バトルラインと、ハナ、ハナという横一線の2着争いの3着だった。
「まわりが緑に囲まれて、のんびりしちゃったかな」と出川克己調教師。ようは、敗因はわからない、ということ。たしかにメイセイオペラを楽に逃がし過ぎたということもあった。とはいえ、タイキシャーロックの前年のレコードを1秒1も短縮する抜群のタイム。帝王賞でアブクマポーロの3着だったメイセイオペラも強くなっていた。
2歳下のメイセイオペラという好敵手が現れたことで、交流初期の地方競馬が盛り上がり、地方競馬ファンが熱くなった。
(つづく)