ついこの間、年が明けたとばかり思っていたら、暦の上ではもう今日より2月だという。早いものだ、と思うが、これは年齢のせいなのだろうか。振り返ってみると、10歳から20歳の10年間はものすごく長かったが、以後は、馬齢を重ねる毎に早く感じるようになった。光陰矢のごとし、とはよく言ったものである。
さて、2月になると、生産地では、各種馬場の展示会が開催される。今年はまず、2月8日のダーレージャパン(門別)を皮切りに、以降、16日にはビッグレッドファーム(新冠)と優駿スタリオン(新冠)。21日はJBBA静内種馬場、アロースタッド、レックススタッド(いずれも静内)、22日には社台スタリオン(早来)、そして23日のHBA門別種馬場、ブリーダーズスタリオン(ともに門別)と続く。
現在、浦河地区の2つの種馬場は、展示会の日程が未定(日高スタリオン)と中止(イーストスタッド)になっているが、いずれ追って決定されることと思われる。
それにしても、10年前、20年前と比較してみると、種馬場の勢力地図というか分布図が、本当に大きく変化してしまったことに改めて驚く。
とりわけ、浦河以東の種牡馬分布に変化の度合いが大きい。例えば、20年前(昭和61年)頃には、我が浦河町には、種牡馬を複数繋養している種馬場が、ざっと数えて10ヶ所以上はあった。それが現在は、前記の2ヶ所の他、社台スタリオン荻伏だけ?となってしまった。あるいは個人牧場で飼育繋養されている種牡馬がいるかも知れないが、いずれにせよ種馬場の数も、種牡馬頭数も激減した。
おそらく、20年前は現在と比較するとかなり「地産地消」に近い形態で軽種馬生産が行われており、種付けのためにはるばる100km以上も車を走らせることなどはほとんどない時代だった。20年前はまだのどかなものだったのだ。日高ではほぼ各町の生産頭数に見合った数の種牡馬がそれぞれの町の種馬場で繋養されていた。当時、社台スタリオンなどは、日高東部に住む我々から見ると、ほとんど異国も同然に映っていた。私もその1人だが、日高から社台スタリオンへの道順さえよく知らないという生産者が多かったのではなかろうか。種付けはほとんど日高の中での移動だけで事足りていたから。
ところが、今はもうまったく時代が変ってしまい、社台詣を負担に感じるようでは、生産者にあらず、とでもいうような風潮になった。ざっと浦河から社台スタリオンまでは2時間から2時間半の行程だが、それが「当たり前」のことになってきている。社台スタリオンで隣近所の生産者に会っても今では誰も驚く人間などいない。それが日高の生産者にとっては日常風景だからだ。
とはいえ、日高から社台へ、と「ひとくくり」で表現するには、やや無理がある。日高は海岸線に沿って、門別からえりも岬までおよそ150km?もの長さに町が点在する地域である。社台スタリオンまでの所要時間も当然のことながら、えりもと門別ではざっと2〜3時間ほども違ってくる。この差は大変なハンディキャップである。同じ日高でも、門別とえりもとでは同列に論じられないほどの差となっている。
そんなわけで、種牡馬の分布図を見ても、日高では東部(浦河、様似、えりも)から徐々に中部(三石、静内)そして西部(新冠、門別)へと重心が移動しつつあるようだ。門別町富浜に新たにダーレージャパン・スタリオンコンプレックス(JC優勝馬アルカセットを繋養)が完成し、今年より業務開始となる。この傾向は今後も当分続きそうだ。何より、他の地区とは異なり、今春から供用開始の新種牡馬が浦河地区には入っていないのが気がかりである。日高東部はすでに生産においては条件の不利な「辺地」になってしまったということだろうか?
さて、ガラリと話題を変えて。
先週1月26日早朝のこと。浦河町向別(むこうべつ)から上杵臼(かみきねうす)にかけての約20km区間で、スケソウダラを満載した大型トラックが、積荷をバラバラと落としながら走行し、大変な騒ぎとなった。荷台後部のアオリの止め金が破損したため、とのことだが、日の出前の道を運転手はずっと気づかずに魚をばら撒きながら走ったらしく、異様な有様となった。その量は10tにも及ぶとか。撤去作業はこの日の午後までかかりようやく終了したという。いやはや何とも凄まじい光景ではあった。