日帰りで関西取材があり、帰りの新幹線の車中でこれを書いている。
それはいいのだが、恐ろしいことに、今はシャープペンシルでノートに横書きというスタイルで記している。
私はSurface Proというタブレットパソコンを移動用に使っているのだが、行きの新幹線で電源を入れたら「マイクロソフトアカウントを追加してください」というメッセージが出てきて、パスワードを入力しなければならなくなった。
で、パスワード一覧を記したメモを見ようとOneDriveからiPhoneにダウンロードしたら、文字化けして解読不能。なので、パソコンの初期画面を出せなくなってしまったのだ。
パスワードの再設定にもトライしたのだが、「アカウントの回復」というページにアクセスし、長々と入力している途中で間違って終了ボタンを押して泣きそうになることを繰り返しているうちに、浜名湖が見えてきた。
ようやく復旧リクエスト受付メールが来たら、「ご案内は最大24時間を要します」と呑気なことが書いてある。
いつも、往路で、取材の質問コンテなどをつくっているのだが、今回はそれも手書きでやった。新幹線のなかで物を書いたことのある人はわかると思うが、揺れて案外大変なのだ。キーボードというのは、実は移動向きのツールなのである。
行きの車内はガラガラで、私が乗った車両には10人も乗っていなかった。が、帰り、つまり上りの新幹線の席は3分の1ほど埋まっている。いったん連休が終わる日なので、帰京する人が多いのだろう。
今日はスポーツ誌「ナンバー」の競馬特集の取材だった。5月20日発売号で、私は3本担当することになった。
そのひとつの取材で、角田晃一調教師に話を聞いてきた。
もちろん距離を取って、間にパーテーションを置き、平時ならもっと長くなっていたであろう話を早めに切り上げた。
初めて角田師にインタビューしたのは1991年のことだった。当時、角田師は騎手デビュー3年目、誕生日が来て21歳という若さだった。その年、シスタートウショウで桜花賞を制するなど、67勝をマークした。
あれから30年。髪に少し白いものが見えるようになったが、50代とは思えないほど若々しい。騎手時代からほとんど体重は変わっていないという。
インタビューの内容は「ナンバー」誌面をご覧いただくとして、角田師の記憶力のよさには驚かされた。馬の個性やレース内容に関してはもちろん、私が初めてインタビューした30年前のことまで覚えていた。
今、車内販売でアイスクリームを買った。早速食べようとしたら、冷えて硬くなっていて、プラスチックのスプーンではまったく歯が立たない。東京に着くまでにやわらかくなるだろうか。
仕事とはいえ、外出して、県境をいくつも跨ぐことにはやはり罪悪感がある。
東日本大震災が発生した10年前、東京電力福島第一原子力発電所事故が起きたあとも、複雑な思いで出かけたことを思い出した。月末のドバイワールドカップを取材するためスーツケースを押して成田空港に向かっていたのだが、放射能から逃げるために出国するように見えたら嫌だな、と思っていた。
風評に動かされて日本を脱出した人もかなりいたようだが、被災地から離れることができず、そこで生活をつづけていた人もまた多くいたからだ。
ようやくアイスクリームを少し削って食べることができるようになった。
新幹線では何度もアナウンスしているのでさすがにノーマスクの人はいないが、在来線には2人いたので驚いた。2人とも私とそう変わらないオッサンだった。あの心臓があれば、ワニのいる池のほとりでも熟睡できるのではないか。
羨ましいとは思わないが、どんな仕事をしているのか、そして仕事ができるのか、できないのか、周囲の評価を訊いてみたいものだ。
新横浜に着いた。この手書き原稿を編集者に写メしたら嫌がられるだろうから、自宅兼事務所のデスクトップパソコンで入力しなおしてからメールする。ノーマスクで外出できるオッサンなら、躊躇せず手書き原稿を写メするんだろうな。
明日の取材はリモートで行う。
本日、5月5日の船橋競馬場第8レースで、落馬で競走を中止したカラ馬がコースを逆走してくるというアクシデントがあった。
直線の映像を見ると、最内にいて、正面から来たカラ馬を避けて外に行ったサウンディングベルのほか数頭が影響を受けていた。あの不利がなければ、1、2着はともかく、3着以下の着順は変わっていたかもしれない。落馬した騎手たちの怪我も、ぶつかりそうになって怖い思いをした馬たちのメンタル面も心配だ。
ゴールデンウィークで疲れを抜くどころか、かえってストレスを溜めた人も多かったのではないか。
厳しい状況がつづきますが、みなさま、どうぞご自愛くださいませ。
※当コラムは5月5日に執筆しました