地方競馬を愛して50年のタレント山田雅人が地方競馬をその歴史と共に熱く語る!
競馬記者、元ジョッキー、アナウンサー、タレント、お笑い芸人など各界の競馬好きによって構成される「地方競馬アンバサダー」が思い思いのスタイルで楽しむ、地方競馬の魅力を隔週で発信!
この度、地方競馬のアンバサダーを務めさせて頂く事になりました。本当に嬉しい思いであります。
私が、地方競馬と出逢ったのは1973年(昭和48年)に遡ります。石油ショックによる不景気で、辛く厳しい時代でした。そんな時代に、人々に夢と希望を届けた一頭のサラブレッドがいました。その名は、ハイセイコー。大井競馬場でデビューしてから6連勝、こんな強い馬がいたのかと周囲を驚かせました。
当時小学6年生でテレビで親父とハイセイコーの姿を見て、私はハイセイコーが活躍する地方競馬という存在を知り、好きになっていきました。
その後、彼(ハイセイコー)は中央競馬に移籍し、中央競馬のエリートホース達を倒し連勝街道を突き進み、ついにクラシックレース「皐月賞」を制覇します。皐月賞はハイセイコーを見るために10万人を超えるファンが集まりました。当時この馬と自分達の人生を重ね、大人達は声援を送っていたのです。地方から這い上がり、今も頑張り勝利を重ねるハイセイコーのように自分達も頑張れば夢の花を咲かせられると希望や勇気を抱きました。
その後、ハイセイコーの連勝街道は長く続くと思われていましたが、突如ストップ。
ダービーで3着に敗れたのです。日本中が落胆と悲しみの声に包まれ始めた時、寺山修司さんの詩が届けられました。
「ハイセイコーよ ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない」
この詩により、落胆し、打ちひしがれていたファンの心に再び灯をともし、ハイセイコーと一緒に苦しくても前を向いて生きてゆくんだと勇気づけられたものです。
社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホース、ハイセイコー 提供:地方競馬全国協会
ハイセイコーのおかげで地方競馬を知った私は次第に競馬が好きになり、競馬を知らない人たちへ面白さ、感動を伝えたいという思いから芸能界に入りました。デビューして間もない20代の頃、岐阜県笠松競馬場(地方競馬)からオグリキャップが登場しました。
オグリキャップも笠松競馬所属時に12戦10勝(内8連勝)という好成績で中央競馬へ移籍し、ライバルたちと死闘を重ね有馬記念など多くの重賞レースを制覇しました。彼(オグリキャップ)の走りから、“諦めず、頑張れば、夢がかなう”という勇気をファンは感じ取っていました。
芸能界で新人として頑張っていた私もその一人でした。好きだった地方競馬でしたが、もっともっとのめり込みました。大井競馬場・川崎競馬場・園田競馬場・佐賀競馬場・笠松競馬場・水沢競馬場・盛岡競馬場等々、全国の地方競馬場へ実際に足を運ぶようになりました。そんな折、私は一頭の馬と新たな出逢いがありました。それは、岩手競馬のメイセイオペラ。南部杯で宿命のライバル、アブクマポーロとの死闘。
そして1999年、地方競馬の所属のまま、フェブラリーステークスで見事勝利をおさめGI馬になりました。地元ファンの割れるような声援を私は忘れる事はないでしょう。
1999年フェブラリーステークス(GI)を制したメイセイオペラと菅原勲騎手 提供:地方競馬全国協会
ハイセイコーに出逢い地方競馬という存在を知った私は好きになり、オグリキャップによりその力強さを学び、メイセイオペラと地元ファンの声援の熱さ…この三頭に出逢わなかったら、地方競馬を愛し、地方競馬の中で起きる素敵なドラマや死闘に涙する今の私はいなかったでしょう。
さあ、今年は馬たちがどのようなドラマを繰り広げ、我々競馬ファンに何を教え、何を伝えてくれるのでしょうか?
今から楽しみです。