「辞めるのをやめたい」。そう話したのは、引退レースとなった京都ハイジャンプで重賞初制覇を果たした三津谷隼人騎手(JRA)。デビューからわずか6年でムチを置く決断をしましたが、ほかにも若くして引退するジョッキーはJRA・地方ともに少なくありません。
5年前のちょうどいま頃、デビュー4年目のジョッキーがとある牝馬とコンビ3連勝を挙げて検量室前に帰ってくると、師匠は満面の笑みで出迎え、ほかの調教師たちも駆け寄ったり2階のベランダから身を乗り出したりして祝福の声をかけました。
東京ダービー(6月9日、大井2000m)に有力馬の1頭として出走予定のトランセンデンスのお母さん・タントタントと、主戦の小山裕也騎手(地方、園田・姫路)が紡いだワンシーンです。あれから月日は流れ、小山騎手はデビュー6年を待たずして引退。現在はJRAの笹田和秀厩舎(栗東)で調教助手を務めています。
20代半ばでの決断に「ジョッキーへの未練はなかった」と言う陰には、少年時代から抱くJRAへの憧れや、大切な人と結婚したい思いがありました。若くして引退を決断したジョッキーの「ちょっと馬ニアックな世界」を覗いてみましょう。
顔を撫でると気合いが入るタントタントとの活躍
小山裕也騎手がデビューしたのは2013年4月。
同期には笹川翼騎手(大井)、石川倭騎手(門別)、木之前葵騎手(名古屋)らがいます。
野球少年だった小山騎手は小学5年生の頃、雨で試合が中止になり時間を持て余していたところ、父親から「友達と京都競馬場に行くけど、一緒に来るか?」と誘われたことが競馬との出会いでした。
その後、登場したのがディープインパクト。
「日本近代競馬の結晶」とも言われ、スーパースター・武豊騎手と社会現象を巻き起こす姿に「騎手ってカッコいいな」と憧れを抱き、ジョッキーを目指して阪神競馬場の乗馬少年団で乗馬を始めました。
しかし、JRAの競馬学校を2度受けるも不合格。
そんな時、乗馬少年団の同期からの紹介で盛本信春調教師(園田・姫路)に出会いました。
「うちの所属でおいで」
そのひと言で決心し、地方競馬教養センターを受験し合格すると、地方競馬のジョッキーとして歩むこととなったのでした。
2013年4月にデビュー。
1年目は4勝、2年目と3年目に2勝、4年目に12勝を挙げました。
「想像以上にシビア」と感じながらも、コツコツと成績を残していった小山騎手。
若手ジョッキーが集う全日本新人王争覇戦(高知)に出場したいと願い続けたものの、ついには選出されず、悔しさを感じていた2016年1月、タントタントという牝馬とコンビ初勝利を挙げました。
「(新人王に出場できなかった)鬱憤を晴らすかのように乗りました」という小山騎手の思いが馬に伝わったのかもしれません。
▲オンとオフの切り替えがすごかったタントタントと小山騎手
その後もコンビを組み、活躍を続けます。
「あの時は本当に嬉しそうにしていたなぁ」
タントタントを管理し、小山騎手の師匠にもあたる盛本調教師はそう振り返ります。
小山騎手も「オンとオフがしっかりしていて、力のある馬ってこんな感じなんやろうな、というのがタントタントで初めて分かりました」と言います。
そのオンオフの切り替えの一幕は、パドックでも見られました。
騎乗命令がかかり、小山騎手が一礼をしてタントタントの元に駆け寄っていくと、ずっと顔を向けて見つめてきました。
「なんやろう?と思って、ヨシヨシって撫でたら納得したかのように前を向いたので、撫でてほしかったのかな?と感じました。それを引退するまで、ルーティンのようにずっとやっていました。
パドックではそれまで落ち着いて歩いているんですけど、ナデナデするとキリっとして、乗ると背中にクッと力が入るんです。そうやって気合いが入っていって、返し馬もすごい勢いで行くので、オンとオフの切り替えが本当にすごいなと感じました」
春には3連勝を遂げます。B1クラスという、園田では上から3番目のクラスで、トップジョッキーでもなかなか連勝は難しいクラスでした。しかも、3連勝目となった5月19日のレースは「僕の数少ない単勝1倍台のレース」
それでも、「あんなに本命がついていても落ち着いて乗れたのは、このレースだけじゃないですかね。普通にゲートを出ればハナに行っていい勝負ができると思っていました」と話すのは、タントタントを信じていたからでしょう。
レースはその通りになり、4分の3馬身差で勝利。
▲3連勝を挙げ喜ぶ小山騎手(左)と盛本師
ゴールの瞬間、調教師控室では盛本調教師が「おめでとう!」「よかったな」と周りの調教師から祝福を受け、タントタントと小山騎手が引き上げてくると、2階の調教師室ベランダからもお祝いの声がかけられました。
なにより、満面の笑みで出迎えたのは盛本調教師。
「やっぱり自分のところの騎手で勝ったら嬉しいですね」
タントタントはその年の暮れのレースを最後に引退。繁殖入りしました。
「困るけど、彼のため」騎手引退を受け入れた師匠
その約1年後、小山騎手は高知競馬場にいました。
「ジョッキーを続けるかどうしようか、と考えていたんです。減量が取れて、乗り鞍もちょっと減って、レースもなかなか上手くいきませんでした。でも、せっかくジョッキーになったから、園田だけで終わるんじゃなくてほかの競馬場も見てみたいと思って、高知に武者修行に行かせてもらいました」
ジョッキーとしての可能性をかけて向かった高知。ところが、2カ月弱経ったある日、調教中に落馬して鎖骨を骨折。
武者修行期間内での復帰は難しく、そのまま帰ってくることとなりました。
「運がないんやろうなって思いました」
迷っていた心は、引退へとハッキリ決まりました。
「調教した馬が活躍する方が楽しくもなってきていたので、盛本先生に『JRAの厩務員課程を受験しようかと思います』と相談しました」
「いいと思う」
二つ返事で彼の背中を押した盛本調教師。
「 (小山)裕也のためにはそっちがいいと思いました。園田もいまは安定しているけど、JRAは規模も大きくてもっと安定しています。彼がいなくなったら、厩舎が忙しくなって困るのは分かっていましたが、それでもやはり彼の未来を考えると、ね」
盛本調教師の親心でしょう。
トントン拍子に話は進み、競馬学校に合格。栗東・笹田和秀厩舎でセカンドキャリアをスタートしました。
栗東トレセンで会うと、「広すぎて迷子になりそうです」と言いながらも、生き生きとした表情を見せました。
「こちらの仕事も楽しいです。元々、GIとか大きい舞台を見てジョッキーになりたいと思っていて、JRAでやりたい思いがありました。園田は環境も良かったですが、結果的にJRAで調教助手になって、子供の頃に見ていたGIの舞台に一歩でも近づける場所にこられて、良かったかなと思います」
担当馬は持たず、「攻め専」と呼ばれる調教騎乗専門の調教助手として、ジョッキー経験を生かしています。
そしてプライベートでも、一人の男性として大きな決断をしました。
「騎手時代から交際していた方と、JRAに入ってから結婚しました」
今でこそ、好調な売り上げに支えられて園田・姫路の賞金はグンと上がりましたが、彼がジョッキーをしていた頃は増額前。
「騎手の時にプロポーズできたら一番カッコよかったんですけどね。1人で生きていく分にはそこまで苦労はしないけど、結婚するとなると、このままじゃあかんと思いました」
今では子どもも生まれ、充実した日々を送っています。
そして、タントタントにも子どもが生まれました。
父はトランセンド。
「いつデビューするかなって楽しみにしていたら、Twitterで『能検の感じがいい』と書かれているのを見つけて注目していたら、あれよあれよという間に強くなって。初仔から立派な子がでてくれました」
トランセンデンスと名付けられた牡馬は昨年6月、門別でデビュー勝ちを決めると、初開催となったJBC2歳優駿でクビ差の2着。
年が明けて浦和に移籍すると、森泰斗騎手とのコンビでニューイヤーC、羽田盃と重賞2勝を挙げ、東京ダービーに有力馬の1頭として出走を予定しています。
「あれだけ勝たせてもらった馬の子どもなので、どの馬よりも注目しちゃいますよね。ニューイヤーCで重賞初制覇を果たしたときは自分のことのように嬉しかったです。
東京ダービーは無事に走ってきてくれたら、と思います。勝つのが一番ですけど、これからもっともっと強くなりそうな感じもするので、怪我なく帰ってくればまたその後に期待もできると思います」
「またジョッキーをやりたい?」と聞かれても、「全然。やり尽くしました」と答える小山調教助手。
やり尽くしたと思える一つには、タントタントと過ごした濃密な時間があったからでしょう。
今は立場を変えましたが、あの時の思い出を胸に、初仔のトランセンデンスに熱い声援を送ります。
トランセンデンスが出走予定の東京ダービーは、6月9日の夜です。