先週一度帰京してから、また札幌に来た。
このまま、実家を買い主に引き渡す今月末まで滞在するつもりだったのだが、西東京市在住の伯母が亡くなったので、いったん東京に戻ることにした。
伯母は母の姉で、94歳だった。私が大学を受験するとき泊まらせてもらったり、大学に入ってからも食事をつくってもらったりと、生前はずいぶん世話になった。伯母の長男、つまり、私の従兄弟は早稲田大学野球部のOBで、元阪神監督の岡田彰布さんのすぐ下の後輩だった。
卒業後はヤングジャパングループのハンズという会社に就職し、コンサートやイベントなどを仕切る仕事をしていた。私はその従兄弟を「徹兄ちゃん」と呼んでおり、学生時代、徹兄ちゃんの口利きで、コンサートの楽器運びのアルバイトをしていた。
徹兄ちゃんは私を可愛がってくれて、コンサートのチケットをくれたり、ライブを終えたばかりのアーチストに私を紹介してくれたり、自分が乗っていたいすゞ117クーペと、その後継車のピアッツァを、古くなったからとタダでくれたこともあった。
徹兄ちゃんはしかし、癌のため、30歳くらいで死んでしまった。大学の近くの入院先を見舞ったとき、外出してレストランに入った。抗癌剤のためか髪の毛がなくなっており、私より大柄な体もずいぶんやせて、ほかの客から見えないようカバーにくるんだ痰壺に、苦笑いしながら何度も痰を出していた。
あのころの私の目標は、いつかメディアに関わる業界で大きな仕事をし、一方的に世話になっていた徹兄ちゃんに「ありがとう」と言ってもらえるようになることだった。
だが、受けた恩をまったく返すことのできないうちに、徹兄ちゃんは天国に逝ってしまった。最後まで、「ありがとう」と言ってもらえることはなかった。
ようやく何かを返せるようになったときには、もう、恩をくれた相手はいない。
そういうときは、受けた恩を、ほかの誰かに返していけばいいのだ、と、作家の伊集院静さんが教えてくれた。
なるほど、と思ってから、ずいぶん気持ちが楽になった。
東京と札幌を往復しながら、ディズニーシーホテル・ミラコスタというところで行われた親戚の結婚式に出た。披露宴の最中、ミッキーマウス以外、私が名を知らないキャラクターの着ぐるみが何体も出てきてパフォーマンスをしていたのだが、あとで聞くと、一体5万円も使用料がかかるのだという。
私がすぐに名を言える着ぐるみのキャラクターは、ターフィー君とジャビットとつば九郎くらいだ。彼らが誰かの結婚式に出たことがあるかどうかは知らないが、さすがに一体5万円は取らないだろう。
話が逸れたが、披露宴で私の隣に座った女の子は、早稲田大学文学部の4年生だった。東京五輪ではスケートボード会場のメディア担当のボランティアをし、就職先も決まっているという。彼女に「中退一流、留年二流、卒業三流」と早稲田で言われていることを知っているかと聞いたら、知らないという。ネットで検索したら、早稲田を中退した有名人として、堺雅人、タモリ、小室哲哉(敬称略、以下同)が出ていた。寺山修司と大橋巨泉が抜けている。
「中退一流」と言わせるほど活躍した人々を知らない人が大多数になると、どうなるか。中退は中退、ということになるだけだ。つまり、普通に考えたとおり、中退は三流というところに落ち着くのか。
嫌になるくらい、時間が流れ、時代は変わってしまった。
ディープボンドがフォワ賞を勝ち、日本馬の強さをあらためて世界に示した。父のキズナは、8年前のニエル賞で、同い年の英国ダービー馬ルーラーオブザワールドを下している。時代が動いたとまで言っては大げさかもしれないが、日本のダービー馬が、ダービーを勝った年に、そこに範を取ってスタートした英国ダービー馬を負かす日が来た──ということで、感慨深いものがあった。
日本馬によるフォワ賞優勝は、1999年エルコンドルパサー、2012、13年オルフェーヴル以来の4勝目で、ニエル賞は、キズナの3年後にマカヒキが勝っている。
前哨戦には当たり前のように手が届く時代になった。
凱旋門賞本番でも、「勝ちに等しい」と言われた1999年のエルコンドルパサーや、一度は圧勝するかに見えた2012年のオルフェーヴルを超える結果を出す日本馬が必ず現れるだろう。
それが今年になる可能性もある。
来週出国予定のクロノジェネシスも順調なようだ。
10月3日の第100回凱旋門賞が楽しみになった。