1992年の神戸新聞杯等を制したキョウエイボーガン(撮影:朝内大助)
“ヒール役”だったボーガンの穏やかな晩年
キョウエイボーガンが満32歳(明け33歳)で天に召されたのは、2022年の元日の朝のことだった。持病の蹄葉炎により立ち上がれなくなり、安楽死という決断に至ったという。
キョウエイボーガンの取材をしたのはおよそ6年前の2015年秋だった。育成時代にボーガンに跨った経験があり、競走馬としてデビューしてからも応援していたという小島茂之調教師とともに、群馬県にある乗馬クラブアリサを訪ね、当コラムで取り上げた。初めて見るボーガンはとても小柄で、小島師から首をマッサージされて気持ち良さそうに身を任せていた姿が印象に残っている。
※当時のコラムはこちら「ボーガンからオープン馬の背中、乗り味を教わった」と小島師は話し、乗馬クラブアリサの中山光右さんも「すごくバネがある馬」と評した。
2015年の取材時、小島茂之調教師とキョウエイボーガン(C)netkeiba.com
重賞勝ちをする馬というのは、やはり秀でた部分があるのだろうと、2人の逸話を聞いて思ったものだ。
キョウエイボーガンは1989年4月27日に北海道浦河町の尾野一義さんの牧場で生まれた。父テュデナム、母インターマドンナ、母父テスコボーイという血統で、栗東の野村彰彦厩舎の管理馬となった。3歳(馬齢旧表記)時は2戦1勝だったが、4歳春には露草賞(500万下)、白藤S(900万下)と連勝し、7月の中日スポーツ賞4歳S(GIII)で重賞初制覇を果たす。秋シーズンには、神戸新聞杯(GII)でも前走に続いて逃げ切り勝ちを収め、4連勝を記録した。
京都新聞杯(GII)9着を挟んで迎えた菊花賞では敢然とハナを切った。その逃げが同じ脚質のミホノブルボンの三冠達成を阻む要因を作ったとして、キョウエイボーガンはヒール役となってしまった。
ボーガンはその後、長期の休養などもあり、勝ち星をあげられないまま1994年10月のオパールS(OP)6着を最後に現役を引退。ボーガンに惹かれて応援してきた1人の女性が、引退後廃用にされることになっていたところを引き取り、高知県の土佐黒潮牧場を経て、中山光右さん、千賀子さん夫妻で運営する乗馬クラブアリサに預託した。
キョウエイボーガンの馬名プレート※2015年撮影(C)netkeiba.com
6年前の取材時、乗馬クラブアリサの中山光右さんは、実はキョウエイボーガンはあまり好きではなかったと明かしていた。
「ブルボンが大好きだったから、やはり(ブルボンに)勝たせたかったというのがありましたよね。そのブルボンの三冠を邪魔したと言われたボーガンがウチに来て、それで長年付き合っている。それを考えるとおもしろいよね」
32歳まで生きたわけだから、本当に長い付き合いになった。
アリサに来たばかりの頃は、競走馬時代の名残りがまだ残っていた。
「なかなか捕まらなかったんですよ。ちょっと人嫌いなところがあったのかな。それにパワーがすごくて、曳き馬をしていても持っていかれちゃうんですよ。前に馬がいるとダメだったんですよね」(中山さん)
その名残りも中山さんが愛情を持ってボーガンと接し、人と馬との約束事を教え、徐々に解消された。
キョウエイボーガンと中山さんご夫妻(提供:引退馬協会)
オーナーの女性の愛情を受け、乗馬クラブアリサの中山さんご夫妻に見守られて、ボーガンは穏やかに余生を過ごしてきた。だが22年間支え続けた女性も高齢となり、経済的に1人で1頭の馬を預託していくのが厳しくなったため、認定NPO法人引退馬協会に支援を要請した。27歳と高齢のボーガンをどのように支援するのがベストなのか。引退馬協会で協議の末、その女性にもフォスターペアレントとして預託料の一部を負担してもらう形でフォスターホースとしての受け入れが決まった。高齢であることを考慮して移動はさせず、慣れ親しんだ乗馬クラブアリサでそのまま過ごすこととなった。
22年前、ファンの女性がボーガンの命を繋ぎ、引退馬協会がそのバトンを引き受けた。競走馬引退後、人知れず消えていく存在が多い中、キョウエイボーガンは強運の持ち主ともいえるだろう。引退馬協会のフォスターホースになることで、フォスターペアレント会員になってさらにボーガンを支援しようとする人の輪も広がる。ヒール役だったはずのボーガンの晩年は、たくさんの人の愛情に包まれていた。そう思えてならない。
(つづく)