▲2022年2月末、惜しまれつつも定年を迎える藤沢和雄調教師(C)netkeiba.com
1988年の厩舎開業以降、数々の活躍馬をターフへと送り出し、1995年から2009年までの間、11度のJRA賞最多勝利調教師を獲得した藤沢和雄調教師が、2022年2月末、惜しまれつつも定年を迎えます。
netkeibaでは名伯楽の軌跡をたどる「藤沢和雄調教師 引退特集」を、一週間にわたってお届け。初回の今回は「藤沢和雄物語」(前編)と題し、3頭の名馬を軸に藤沢厩舎の創世記をたどっていきます。
(文=島田明宏)
シンコウラブリイと共に、初のリーディング獲得
どんなに大きな仕事をなし遂げた人にも、最初の一歩がある。
地方と海外を含め、通算1576勝、うち重賞129勝(2月20日終了)を挙げている伯楽・藤沢和雄にとって、大舞台で最初の一歩をともに踏みしめたのは、外国産馬のシンコウラブリイ(牝、父カーリアン)であった。
シンコウラブリイは、旧3歳だった1991年の秋、美浦・藤沢和雄厩舎に入厩した。藤沢は開業4年目の40歳。
同年11月の新馬戦と福島3歳ステークスを連勝したシンコウラブリイは、岡部幸雄に乗り替わった阪神3歳牝馬ステークスで3着。中1週がつづく厳しいローテーションだったにもかかわらず、新馬戦は4馬身差、2戦目はレコードで完勝。阪神3歳牝馬ステークスでは翌年の桜花賞とスプリンターズステークスを制するニシノフラワーからコンマ2秒差と健闘した。
当時、外国産馬はクラシックに出走できなかったため、1992年の初戦は5月23日のカーネーションカップとなり、6着。しかし、次走のニュージーランドトロフィー4歳ステークスを勝ち、藤沢に初めての重賞タイトルをもたらすと、富士ステークスまで4連勝。連闘で臨んだマイルチャンピオンシップ2着、1993年初戦の京王杯スプリングカップも2着、安田記念は3着と惜しいレースがつづいたが、その後また連勝街道を突き進み、マイルチャンピオンシップを優勝。本馬にとっても藤沢にとっても初めてとなるGI制覇をなし遂げた。この年44勝を挙げた藤沢は、初めてリーディングの座についた。
▲1993年のマイルCS、藤沢調教師にとって初めてのGI制覇となった (C)netkeiba.com
シンコウラブリイに関してもうひとつ特筆すべきは、この馬を中心とする、「藤沢血統」とでも言うべき血脈が大きく枝葉をひろげたことだ。
半弟のタイキマーシャル(エプソムカップ)のほか、半妹ハッピーパス(京都牝馬ステークス)、甥のキングストレイル(セントライト記念、京成杯オータムハンデ)、コディーノ(札幌2歳ステークス、東京スポーツ杯2歳ステークス)、姪のチェッキーノ(フローラステークス)、いとこのタイキエルドラド(アルゼンチン共和国杯)、タイキトレジャー(函館スプリントステークス)、初仔のロードクロノス(中京記念)といった重賞勝ち馬も藤沢の管理馬として活躍。この牝系の血は今なおつながれている。
バブルガムフェローで確立した「藤沢流ローテ」
シンコウラブリイと入れ替わるように藤沢厩舎の看板ホースとなったのが、旧4歳馬の「藤沢流」のローテーションを広く知らしめたバブルガムフェロー(牡、父サンデーサイレンス)である。
旋風を巻き起こしていたサンデーサイレンスの2世代目の産駒として1995年の秋にデビューし、3連勝で朝日杯3歳ステークスを制覇。藤沢にとってのGI2勝目となった。旧4歳初戦のスプリングステークスも完勝し、クラシックの有力候補と目されたが、骨折のため春シーズンは休養することに。
そして秋、藤沢は2000mまでがベストと判断し、菊花賞ではなく天皇賞・秋をターゲットに据えた。対古馬初戦となった毎日王冠で復帰して3着になると、つづく天皇賞・秋では、マヤノトップガン、サクラローレル、マーベラスサンデーといった古馬のトップホースを相手に、好位から抜け出す横綱相撲で優勝。1984年に天皇賞・秋が2000mになり、さらに3歳馬が出走可能になった87年以降では初めてとなる旧4歳馬による勝利を果たした。
▲旧4歳馬の「藤沢流」のローテーションが実った1996年天皇賞・秋 (撮影:下野雄規)
強い旧4歳馬はクラシックに使うべき、という旧来の常識を、この馬の豪快な走りで打ち壊した。
バブルガムフェローより2歳上の外国産馬タイキブリザード(牡、父シアトルスルー)も、藤沢のホースマンとしての姿勢を示す一頭となった。
デビューは旧4歳だった1994年の2月。無理せず、焦らず、馬の成長を待ちながら走らせ、適性を生かす舞台を世界中に求めていく――という「藤沢流」の使われ方をした馬であった。
新馬戦と2戦目はダートだったが、3戦目の毎日杯からは芝を使われ、古馬になった1995年にGI初出走となった安田記念で3着、つづく宝塚記念で2着と好走。秋はジャパンカップ(4着)と有馬記念(2着)に出走し、旧6歳になった1996年、安田記念で2着。秋、カナダのウッドバイン競馬場のダート2000mで行われたブリーダーズカップクラシックに出走し、13着。3度目の参戦となった安田記念でGI初制覇を遂げた1997年もアメリカに遠征し、サンタアニタパーク芝1600mのオークツリーブリーダーズカップマイル(3着)を経て、ハリウッドパーク競馬場で行われたブリーダーズカップクラシックに再度挑戦し6着となった。
この馬のように、筋骨逞しく、毛艶がピカピカで、脚を溜めればいかにも弾けそうな走り方をするのが、典型的な藤沢厩舎の馬というイメージとなった。グリーンを基調とした馬具と相まって、ひと目見て藤沢の管理馬とわかる馬をつくるのも「藤沢流」のひとつであったかのように思われる。
海外への挑戦――藤沢の夢を叶えたタイキシャトル
タイキブリザードの現役最後の年となった1997年にデビューしたタイキシャトル(牡、父デヴィルズバッグ)は、海外への挑戦をつづけてきた藤沢の夢を叶えた駿馬だった。
その97年4月の旧4歳未勝利戦でデビューすると、500万下、菖蒲ステークスと3連勝。菩提樹ステークス2着を挟んで、再び連勝街道をひた走る。3連勝でマイルチャンピオンシップ、4連勝でスプリンターズステークスを制し、最優秀短距離馬に選出された。
1998年、前年から6連勝で安田記念を勝つと、8月にはフランス・ドーヴィル競馬場の伝統のマイル戦ジャックルマロワ賞を勝ち、藤沢と、鞍上の岡部幸雄にとっての海外GI初制覇を果たした。
その12年前の1986年、岡部が騎乗した最強馬シンボリルドルフが、日本中の期待を背負ってサンタアニタパーク競馬場のサンルイレイステークスに出走するも、6着に敗れていた。藤沢は、そのルドルフが所属した野平祐二厩舎の調教助手だった。そう、このジャックルマロワ賞のゴールは、藤沢和雄と岡部幸雄という、日本を代表するホースマンがともに見ていたの積年の夢が成就した瞬間だったのだ。
この年、タイキシャトルは短距離馬として初めて年度代表馬に選出された。
▲世界でも輝いたタイキシャトルと岡部幸雄騎手 (写真は1998年マイルCS、撮影:高橋正和)
(文中敬称略、明日公開の後編へつづく)