遅ればせながら、2021年度JRA賞馬事文化賞受賞作『馬のこころ 脳科学者が解説するコミュニケーションガイド』(ジャネット・L・ジョーンズ著、尼丁千津子訳、持田裕之監修、パンローリング株式会社発行)を読了した。
いやあ、面白かった。本書は、「脳の仕組みに基づいたホースマンシップ」について記されたものだ。馬が周囲や物事を認知、認識するメカニズムを知ることによって、馬が取る行動の意味を理解しよう――と、著者が私たちを導いてくれる。例えば、なぜ若い馬は洗い場などに脚を踏み入れることを躊躇するのか、なぜ円を描くように曳くと落ちつくのか……といったことが、読んでいるうちにわかってくるのだ。
なるほど、と唸らされ、響く言葉が随所にあった。
馬と接するとき、大前提として私たちが理解しておかなければいけないのは、人間は捕食者で、馬は被食者である、ということだ。馬は、前方に狭い間隔でついている私たちの目を一見しただけで、人間が捕食者であることを察する。
馬の脳は進化によって、今なお本能的に人を怖がるようにつくられているのだ。人間の脳には前頭前野と呼ばれる脳細胞の集まりがある。それにより、目標や計画を立てたり、意思決定をしたり、評価したりすることができる。しかし、馬には前頭前野がないのだという。だから、危険を察知したら、それが何なのかを見極めて判断するというプロセスを抜きにして、いきなり横っ飛びしたり、走り出したりする。
前頭前皮質が41%を占める人間の脳は、何らかの目的や計画によって突き動かされるのだが、馬の脳は刺激によって働く。「ウマの調教とはある意味、あなたの前頭前野による判断に頼るよう、あなたのウマに教える過程でもある」(P272)という部分には、大きく頷いた。調教とは、人と馬が互いの脳の機能を連動させた「人馬一体」をともに目指していくこと、と言い換えることもできるだろう。
馬の知覚の仕方についても、本書で初めて知ることが多かった。
特に興味深かったのは、人間と馬の「カテゴリカル知覚」の違いだ。人間は、ものをカテゴリー分けして、例えば、ドアを正面から見ても斜めから見ても「ドア」だと認識することができる。しかし、馬は、正面から見たドアと、斜めから見たドアを、別のものとして認識するのだ。見る角度が変わるだけで、それが同じものであることがわからなくなってしまうのだが、その代わり、人間が気づかないほどの小さな向きの変化などにも実によく気づく。だから、厩舎の脇に置かれているホースが昨日よりちょっとよじれているだけでも、横を通るとき、怖がったり、慎重になったりするのだ。
そんな馬の脳は「学習するように」できていて、人間を顔、声、服で認識し、どれが自分の馬具かわかり、騎乗者のかすかな扶助の意味を一万以上も覚えているという。「ウマの学習能力に難があるとしたら、人間が間違って教えたことまであまりに素早く学習してしまって、しかもなかなか忘れられないという点だろう」(P194)には、苦笑しながら頷くホースマンが多いと思う。
観察による学習能力も人間が思っている以上に高く、とりわけ、自分より馬齢か地位が上の馬を観察して真似るのが得意なのだという。そうしたことを知ると、初めての競馬場でレースをする前にスクーリングを行うことや、常歩の運動でも、馬場での調教でも、競走能力が高く、理想的な身のこなしをする馬を先頭にすることの有用性がきわめて高い、ということが理解できる。
人間と馬の脳の働き方、知覚・意識の仕方には、大きな、対照的とも言える違いがあることがよくわかった。例えば、林道を目的地に向かっているとき、人間の意識や関心は「家に着く」という目標を達成することに向けられているので、そのほかのものにはあまり注意を払わない。しかし、馬の脳は刺激によって働くので、草むらに隠れているシカや、木に止まっているフクロウ、風でカサカサ鳴る葉っぱなどに注意が払われている。馬がそうしたことに細かく反応するのは、よそ見ばかりしているだとか、注意力が散漫だとかいうわけではなく、馬の脳がそういうふうにできているからなのだ。
「さらに驚くべきことに、ウマは実物のみならず、写真のなかの人間の表情も読み取れる。ウマは怒った顔つきの人間の写真を避けようとするが、見てしまった場合は心拍数が急速に高くなる」(P358)というところを読んで、馬が余計に愛しくなった。
読んでよかった。馬の脳の働きについて、わかりやすく、読み手の好奇心をくすぐりながら教えてくれる内容もさることながら、翻訳文は非常にクオリティが高く、図もわかりやすい。とても丁寧につくり込まれた一冊である。
この『馬のこころ 脳科学者が解説するコミュニケーションガイド』は昨年8月に出た新しい本だが、ほかにも、佐野洋の競馬ミステリー『直線大外強襲』(1971年)や『蹄の殺意』(1972年)といった半世紀も前の作品を読んで、「北京五輪ロス」になりかけていた自分を慰めていた。
馬や競馬の本には、名作、傑作が多い。今、キンドルなどの電子書籍としても入手できる古典(と言っていいと思う)を読んでいるので、面白かったら、またここで紹介したいと思う。