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ジンクスを覆した瞬間 天才・武豊騎手がスペシャルウィークでダービーを勝つまで/第1回

  • 2022年07月24日(日) 18時01分
“ジョッキーズヒストリー"

▲スペシャルウィークでの日本ダービー初制覇を振り返る(撮影:高橋正和)


今年ドウデュースで6度目のダービー制覇を果たし、自身の持つ最多勝記録を更新したレジェンド・武豊騎手。その歴史をご本人と親交の深いライターの平松さとし氏が、全12回にわたって振り返る「ジョッキーズヒストリー」第1回のテーマはスペシャルウィークでのダービー初制覇です。

デビュー当初から才能を発揮し、当時の新人騎手最多勝記録を更新、2年目にGIを制覇するといった活躍に世間からは「天才」と称されました。そんな武豊騎手ですが、「武豊はダービーを勝てない」という不名誉なジンクスが囁かれたことがありました。今では考えられないそのジンクスを覆した当時の心境、そこへ向かうまでの歩みを振り返ります。

(構成=平松さとし)

後から思えば少なからずダービーを意識していたのかもしれませんね


 1969年3月15日生まれの武豊騎手。騎手デビューしたのは1987年だが、それ以前から多くの夢を抱えていたという。

「僕の場合、父もジョッキーだったので、いわゆる“ウマヤ育ち”ですから」

 父は“ターフの魔術師”と呼ばれた武邦彦元騎手元調教師(故人)。幼い頃から厩舎に出入りし、父の活躍も見ていた武豊少年は「物心がついた時には騎手になりたい」と考えるようになっていた。

「本格的に馬に乗り出したのは小学校の高学年になってからですが、当然、その時点で“将来は騎手になるため”に始めたというつもりでした」

 つまり……。

「多くの騎手仲間が、デビューが決まると目標のレースにダービーを挙げますが、自分にとってはデビューの何年も前、幼い頃からダービーを勝ちたいと考えていたし、実際、公言していました」

 そんな憧れの大一番に初めて騎乗したのは1988年。デビュー2年目の事だった。当時はまだ24頭立てだったこのレースで、十代の武豊騎手が手綱を取ったのは16番人気のコスモアンバー。結果は勝ったサクラチヨノオーから1秒9離されての16着だった。

 その後も毎年のようにダービーでの騎乗機会を得た。

 90年には皐月賞馬ハクタイセイの鞍上を任され2番人気に推された。しかし、アイネスフウジンの5着に敗れると、3年後の93年も皐月賞馬ナリタタイシンとのタッグで挑んだが、3番人気3着。ウイニングチケット、ビワハヤヒデの2強に僅かに届かなかった。

 更に3年後の96年、1番人気のダンスインザダークでフサイチコンコルドのクビ差2着に敗れると、口の悪い人達からは「武豊はダービーを勝てない!?」とまで言われた。

「ダンスインザダークは弥生賞を勝った時点でかなりチャンスがあると思いました。でも、皐月賞を週末に控えた月曜日に熱発をして、回避。結局プリンシパルSを勝ってダービーに臨んだのですが、ハナ差惜敗の2着。少し歯車が狂ってしまったというか、運のない感は否めませんでした」

“ジョッキーズヒストリー"

▲弥生賞を勝利した際のダンスインザダーク(撮影:高橋正和)


 そんな天才騎手がついに念願をかなえる日がやってきた。

 98年、コンビを組んだのはスペシャルウィークだった。デビュー前の同馬に跨った時、後の4000勝ジョッキーは「ダンスインザダークに似た雰囲気を感じた」と語っている。

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1965年、東京都出身の競馬ジャーナリスト、ターフライター。国内だけでなく、海外での取材も精力的に行なっており、コラムの寄稿や多数の著書を出版するなど幅広く活動している。

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