▲当時の武豊騎手と池江泰郎調教師(撮影:平松さとし)
武豊騎手に4度目のダービー制覇をもたらしたディープインパクト。その後日本競馬史上2頭目の無敗の3冠馬となり、翌2006年秋に凱旋門賞へ挑むことになります。第6回のテーマはその凱旋門賞から復活のジャパンカップまで。
“日本近代競馬の結晶”と謳われ、文字通り日本競馬を背負いフランスに渡ったディープインパクトには現地メディアも盛大な見出しを出すほどに歓迎ムードだったそう。そこにかけられたプレッシャーと戦った人々は当時どんな思いでディープインパクトを送り出し、あの結果を受け止めたのでしょうか。帰国初戦「何としても負けられない」と語ったジャパンカップまでを振り返ります。
(構成=平松さとし)
現役最強馬を送り出すプレッシャーと戦う人々
前回、記した通り、武豊騎手をして「ついに現れた!」と言わしめたのがディープインパクト(栗東・池江泰郎厩舎)だ。
2004年、デビュー前の調教騎乗にそう感じさせた馬は、翌05年、天才騎手を背に無敗の3冠馬へと昇華する。
06年もその勢いに陰りはなく、天皇賞・春(GI)と宝塚記念(GI)を制覇。5つのGI勝ちを手土産に、この年の秋、フランスへ飛び、凱旋門賞(G1)に挑戦した。
ディープインパクトの強さはフランスでも知れ渡っていた。それを示すように日本の三冠馬がフランス入りした際、現地の競馬専門紙であるパリチュルフは“赤い絨毯を敷いて出迎えなくてはならない”と大きな見出しを打った。
この年の凱旋門賞は10月1日。そのため、ディープインパクトがフランスのシャンティイに入ったのは8月9日。レースまで約5週間も前の事だった。
レース当日の午後1時30分。約5週間過ごしたシャンティイを発ち、パリ近郊のロンシャン競馬場へ向かった。乗せられた馬運車は日本とは違い1頭だけが乗れるコンパクトなタイプ。心配はなかったのか?と、当時、池江敏行調教助手に伺うと、彼は答えた。
「この日に備えて数日前から1頭だけで運動をさせるなど、準備をしていました」
池江助手は日本からフランスへ輸送される飛行機にも帯同し、機中のディープインパクトを見守った。凱旋門賞前日には帯同馬のピカレスクコート(栗東・池江泰寿厩舎)がロンシャン競馬場でダニエルウィルデンシュタイン賞(G2)に出走。池江泰郎調教師と共にこれに付き添い、レース当日の関係者の手順を確認した。武豊騎手は言う