私は後ろ向きな性格なので、日本代表の侍ジャパンが優勝したワールドベースボールクラシック(WBC)を延々と振り返るテレビ番組などが大好きである。しかし、今回は、優勝した日の夜の便で4泊6日のドバイワールドカップデー取材に出てしまったので、そうしたものを見ることができずにいる。唯一よかったのは、成田空港から乗り込んだ飛行機でスポーツ番組を流しており、決勝戦の現地映像を丸々再放送していたことだ。ちょうど8回裏から見ることができ、9回表、大谷翔平選手がマイク・トラウト選手を空振り三振に仕留めたシーンでは、拳を握りしめそうになった。
成田で合流した編集者も、ドバイで会ったカメラマンたちも、みな、「WBC効果」でテンションが高かった。
WBCからDWCへ──。私たちの高揚感がそのまま形になったかのようなドラマチックな結末が、本当に待っていた。
史上最多の27頭がドバイに乗り込み、残念ながらドウデュースが取り消して26頭になってしまったが、UAEダービーをデルマソトガケ、ドバイシーマクラシックをイクイノックス、そしてドバイワールドカップをウシュバテソーロが優勝。日本馬が3勝、うちひとつは2011年のヴィクトワールピサ以来となるドバイワールドカップ(ダートでは史上初)という、素晴らしい結果となった。
3頭の関係者のみなさん、おめでとうございます。
それはいいとして、ドバイではマスクをしている人がほとんどおらず、久しぶりの海外だった私は戸惑ってしまった。他人の口臭を嗅いだのも久しぶりで、人間には、いい匂いのする人と嫌な臭いのする人がいるということを、これも久しぶりに思い出した。
帰国してから、侍ジャパンの栗山英樹監督の日本記者クラブでの会見の模様がニュースになっているのを何度か見た。
栗山監督が北海道の栗山町に住んでいることや、日本ハムファイターズ監督時代に、栗山町から車で40分ほどのところにある社台スタリオンステーションを訪ね、ディープインパクトと対面していたことなどは、つとに知られている。昨年の暮れにも、社台スタリオンステーションを訪問してディープの墓参りをし、代表産駒のコントレイルに会うなどしてきたという。
栗山監督は野球解説者時代の2000年、アメリカ西海岸のハリウッドパーク競馬場に足を運んだこともあった。民放のテレビ局スタッフと一緒にいて、首から取材章をさげ、プレスルームのビュッフェで昼食をとるなどしていた。その年の初夏からアメリカ西海岸に騎乗ベースを移した武豊騎手に会いに来たらしかった。
初対面で、何者かもわからない私に対してもきちんと挨拶してくれる紳士だった。
武騎手に「栗山さんが来ていますよ」と伝えたら「本当ですか。会いたいです」と表情を明るくした。確か、パドックからコースにつながる馬道だったと思うが、栗山監督がいたところまで案内したのを覚えている。
もう少し栗山監督関連の小ネタ的な情報を元道民として加えると、監督が住んでいる栗山町は、卵が美味しいことでも知られている。鶏のエサにしている地元産のとうもろこしなども美味しいので、「栗山の卵」は、いい味になるようだ。
これからしばらくは、理想の上司や理想の父親というアンケートで、栗山監督がぶっちぎりのトップになるのだろう。
私は幸運にも、日本馬がドバイワールドカップを制した2度とも、現地で観戦することができた。前回は、東日本大震災から2週間ほどしか経っておらず、成田空港へと向かう高速道路から見える都心も節電のため暗く沈んでいた。震災と原発事故に日本中が打ちひしがれていたなかでの快挙だった。砂漠の地で聴いた君が代を、今でもよく覚えている。あのときは、汗を拭いながら、ただ夜空を見上げるだけだった。
今回は、コロナ禍が収束しないなかでの戴冠で、滅入った心を元気づける快挙という点では12年前と同じだったが、表彰式で流れた君が代のメロディーに合わせて歌詞を口ずさむ余裕が、なぜかあった。WBCのつづきという感覚だったからだろうか。
君が代を歌う誇りというものを、初めて感じることができた。
観戦記は月刊「優駿」に記す。大量の〆切が待っているのだが、このテンションで乗り切りたい。
本当に、いいものを見せてもらった。