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忘れること、忘れられないこと

  • 2023年08月10日(木) 12時00分
 いわゆる「クリエイティブ」の業界では、2月と8月の「ニッパチ」はあまり仕事がなく、そこをどう乗り切るかが大切だ、と言われている。

 ところが、ありがたいことに、今月は何だかんだと忙しい。先週の水曜日の夜、5泊6日の東北取材から戻り、週末までに短いものばかりだが3本の〆切があった。

 そして今週月曜日は船橋競馬場で南関東所属騎手のインタビューがあり、火曜日は、千葉県内の別の場所で、日本初の民間洋式牧場を創設した廣澤安任(1830-1891)と、その養嗣子で、競馬法成立に尽力した廣澤弁二(1862-1928)の曾孫にあたる方に話を聞かせてもらった。

 今週末から来週にかけては札幌、再来週は在来馬の取材でまた遠出する。

 と、ここまで書いたところで、月刊誌「うまレター」の編集長から電話がかかってきた。今週の金曜日、私の自宅兼事務所から徒歩1分もかからないホテルに泊まることになったというので、夕食の約束をした。

「うまレター」では、東日本大震災が発生した2011年から「名馬がつなぐ物語」という2ページの連載をしている。それが今年7月号で第100回の節目を迎えたので、今月号から「名馬たちのラストラン」というテーマに変えて、連載をつづけることになった。第1回は、オグリキャップが奇跡の復活を果たした1990年の有馬記念。編集長によると、読者から「すごく面白かった」「次が楽しみ」「GIを勝っていない馬のラストランも取り上げてほしい」といった声が寄せられるなど、ものすごい反響だったという。

 私にとって、1990年の有馬記念は、けっして最近のことではないが、それほど昔でもないという感覚で、これまで何度も繰り返し書いてきた一戦だ。それがこれほど喜ばれることに戸惑いを覚えると同時に、対象となる読者の年齢層が、思っていたより若くなっていることを知った。

 実は、私はそのオグリの原稿の〆切を間違えて、1カ月早く入稿してしまった。本当は、そのとき、「名馬がつなぐ物語」の第100回を入稿しなければいけなかったのだが、忘れていたわけではなく、とっくに書いたつもりになっていたのだ。

 最近、こうした物忘れや思い違いが多くなって、困っている。

 よくあるのが「謎のメモ」だ。私は電話で話しながら、A4の紙を四つ折りしたものにメモをすることが多いのだが、手元にある紙には、船橋競馬場の関係者出入口の位置と、廣澤安任の末裔の方との待ち合わせ場所のほか、「中央マーク エ(マ?)ッノクマ(?)ア ポテンシャル」と書いてある。ここ1週間以内に書いたものと思われるが、こんなふうに、自分の字が汚くて判読に苦労し、読めたとしても、何のことかわからないことがままあるのだ。

 先週の東北取材でのインタビュー中にも困ったことがあった。メモを取るシャープペンシルの芯が詰まって書けなくなり、予備のシャープペンシルを持ってくるのを忘れたと思い込んでいたら、ちゃんとカメラバッグに入っていたことに、取材後、気がついた。

 どこで何を忘れるのかを、自分で予測し、備えることさえ難しくなっている。

 さて、本稿の〆切直前、昨年の菊花賞馬アスクビクターモアが熱中症による多臓器不全で亡くなったという、残念なニュースが飛び込んできた。

 昨年のクラシック三冠に皆勤し、皐月賞5着、日本ダービー3着、そして菊花賞1着と、コンスタントに世代トップクラスの力を発揮してきた。同馬の菊花賞優勝は、社台ファーム生産馬によるクラシック三冠(牡馬クラシック)勝利としては、2013年のロゴタイプによる皐月賞以来のことだった。昨年の牝馬二冠馬スターズオンアースや、今年の皐月賞馬ソールオリエンス同様、近年の社台ファームの躍進を支えると同時に、「強い社台」を象徴する一頭だった。

 古馬になってからは、日経賞9着、天皇賞(春)と宝塚記念では11着と勝利がなく、これから、というときだった。

 先月末に行われた相馬野馬追は「史上最高に暑い野馬追」と言われた。馬2頭が熱中症で死亡し、この稿がアップされる10日(木)に開催時期の見直しを検討する「第1回日程変更検討会」が開かれることになった。タフなGI馬でも命を落とすほどの酷暑として、今年の夏は、忘れられない夏になるだろう。

 日々のあれこれを忘れてしまうのは、そういう大切なことを忘れないようにする脳の容量を確保するためだと思いたい。

 前にも書いたが、名馬の死は、必ず、私たちに印象的な何かを残す。この悲しい暑さの記憶は、私たちから消えることはない。

 結果的に、アスクビクターモアのラストランは、イクイノックスが勝った、今年の宝塚記念になった。先述した「名馬たちのラストラン」で、この馬について書くときが、いつかはわからないが、来るような気がする。

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作家。1964年札幌生まれ。Number、優駿、うまレターほかに寄稿。著書に『誰も書かなかった武豊 決断』『消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡』(2011年度JRA賞馬事文化賞受賞作)など多数。netkeiba初出の小説『絆〜走れ奇跡の子馬〜』が2017年にドラマ化された。最新刊は競馬ミステリーシリーズ第6弾『ブリーダーズ・ロマン』。プロフィールイラストはよしだみほ画伯。バナーのポートレート撮影は桂伸也カメラマン。

関連サイト:島田明宏Web事務所

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