栗東トレセンでの取材を終え、京都から東京に戻る新幹線の車内でこの原稿を書きはじめた。
夕方、打ち合わせがあるので何事もなく着いてほしいのだが、このところ、どういうわけか乗り物でハマってしまう。
千歳から羽田までの飛行機が遅れたことは何度か書いた。実は、その翌週、長野に行ったときも取材中土砂降りになり、帰りの特急がストップしてしまった。
今回も往路でつまずいた。最寄り駅の改札をスイカで通ろうとしたら、警告音が鳴って扉で前を塞がれた。窓口の駅員にスイカを渡したら、「これは使えなくなっています」。別の駅員に「アップルペイなどに移行したのでは」と言われ、数日前、iPhoneにモバイルスイカをインストールし、使いづらかったのですぐにアンインストールしたことを思い出した。その場で再度インストールしたら、不思議なことに、使えなくなったスイカの残高がモバイルスイカに移っていた。私がわけもわからずやってしまったのだろうが、危うく新幹線に乗り遅れるところだった。
自分に原因がある場合も、そうでない場合も含めて、なぜか同じようなことが重なることがある。
岡部幸雄さんがシンボリルドルフで、そして武豊騎手がディープインパクトで三冠を制したときは、どちらも36歳だった。リバティアイランドで今年の牝馬三冠に王手をかけている川田将雅騎手は37歳。日本を代表する名騎手3人が、キャリアのピークのほぼ同じタイミングで、競馬史に残る名馬に出会っているのだ。
私が聞き手となった「優駿」のインタビューで、川田騎手にそう話した。あまり感情の起伏を表に出さない彼も、この一致にはさすがに驚いていた(ように見えた)。私が「岡部さんが〜」と言うと頷き、「豊さんが〜」と言うと笑顔になり、嬉しそうだった。それでも、感情の動きに自らブレーキをかけるように、「(たまたまそうなったのではなく)意味があると思います」と、いつもの「川田節」で淡々と語りはじめた。
岡部さん、武騎手、そして川田騎手ほどの名手が最高のパフォーマンスを発揮しつづけていると、当然、良質な騎乗依頼が集まり、名馬と出会う確率は高くなる。
そうした状況下で、初めて乗ったときにビビッと来た馬がいれば、その能力や適性を見極め、高い騎乗技術と経験則により、正しい方向に導いていくことができる。ビビッと感じるアンテナも、最高の感度になっているのだろう。
そう考えると、この一致は不思議ではないのかもしれないが、だとしても、個性のまったく異なる3人の名手が、異なる時代に、30代半ば過ぎの非常に近いタイミングで、ルドルフ、ディープ、リバティという、タイプの違う名馬にデビューからずっと乗りつづけて数々の大レースを勝つ──というのは、やはり、競馬の持つ不思議さと面白さにほかならない、という気がする。ルドルフの三冠(1984年)からディープ(2005年)まで21年、ディープからリバティ(2023年)まで18年と、ほぼ同じ間隔でこういうことが起きているのも、競馬の神様の采配なのかもしれない。
メジロマックイーンは自分の誕生日(4月3日)に世を去ったし、寺山修司と、彼が特別な思いを寄せていたハイセイコーは同じ日(5月4日)に亡くなった。競馬に関する出来事では、なぜかそうした一致がよく見られる。
不思議なことが起きてこそ勝負の世界、ということなのか。
競馬の勝敗にしても、事前にわかっているデータどおりにすべてのレースが決着するならば、こんなに人気のある競技にならなかっただろうし、馬券もこんなに売れていなかっただろう。
勝因分析と敗因分析だけで飯が食えるのはなぜかというと、不思議なことだらけのレースを解析してスッキリしたいと考えている人がたくさんいるからにほかならない。競馬は不思議の集合体なのである。
不思議といえば、こんなことがあった。先週の当欄に、自分の店より安いガソリンスタンドを教えてくれたオジサンのことを書いた。すると、「Number Web」の編集者が、旧ツイッターのXで「先日おそらく同じガソリンスタンドに寄りました(笑)。そして同じくコスモに行きました」とコメントをくれた。
やはり、あのオジサンは、私にだけではなく、ほかの人にも安いスタンドを薦めていたのだ。そうすることで、何かメリットがあるのだろうか。それとも、メリットの有無などを行動基準にしない人が世の中にはいる、ということなのか。
まったくもって、不思議である。