▲JRA騎手免許試験目前!(提供:M.ミシェル騎手)
「あの人がいたから今の自分がある」「あの人のあの言葉があったから、ここまでやってこられた」──誰の人生にも“宝物”のような出会いがある。浮き沈みが激しく、つねに“結果”という現実にさらされているジョッキーたちは、そんな“宝物”たちに支えられているといっても過言ではない。そんな出会いや言葉でジョッキー人生がどう変わり、そして今の自分があるのかを、ジョッキー本人の言葉で綴っていく本企画。
昨年に引き続き、今年もJRA通年騎手免許試験の受験を表明しているミカエル・ミシェル騎手。18年にフランス女性騎手の年間最多勝記録を塗り替え、2019年の札幌のWASJ(ワールドオールスタージョッキーズ)に参戦して第3戦を勝利。20年、南関東地方競馬の短期免許を取得して2ヶ月の騎乗で30勝し、地方競馬海外騎手の短期免許期間での最多勝記録を更新した。帰国後、ヴァルデルベとのコンビで伊G2、G3で勝利し、21年、日本でもおなじみのドバイワールドCデーのG2ドバイゴールドCで同馬に騎乗し2着に入る活躍を見せた。
その後も日本での騎乗を切望するもコロナ禍で叶わない中、思い切って環境を一新する。22年春、アメリカ中部に拠点を移し、現在もそこで奮闘中だ。1年間、必ずしも良い環境に恵まれていたとはいえず成績も伸び悩んでいた(1年間の勝率は約5%)が、今年6月末から9月初までの約2か月の勝率は15%と一変! 一体何があったのか。
「M.ミシェル騎手の『私の恩人』」前編を読む(構成=高橋正和)
「私の馬はミカエルで!」デットーリ騎手をも拒んだ馬主の心意気
20年春、南関で旋風を巻き起こした後、最終騎乗日のほんの1週間後、コロナ禍に追い立てられるように帰国を余儀なくされた。吉田照哉オーナーのお祝い会も実現せず、直接お礼を言う機会がなかった。
「でも、帰国後も、吉田照哉オーナーのサポートが続きました。期待馬のトウキョウゴールド(後の21年イタリアダービー馬)に乗せていただき2度も勝たせていただきました。そのうち一つは、私にとって初めてのフランスのリステッド勝利だったんです」
コロナ禍は続き、日本への再度の渡航の機会が得られずにいたが、逆にそれがドイツ調教馬ヴァルデルベとの活躍につながる。ミシェル騎手はこの馬とのコンビで初めての重賞制覇を果たした(20年伊ジョッキークラブ大賞G2、20年伊カルロダレッシオ賞G3)。
▲ヴァルデルベとのツーショット(提供:M.ミシェル騎手)
「ヴァルデルベのチームは素晴らしかったです。彼は一歩一歩いい馬に成長し、私も彼を完全に理解していました。彼の勝利はすべて私で、私が南関で乗っていたときのレースに別の騎手が乗ったんですが、しんがり負けだったんです。オーナーのハッセルバッハさんから連絡があり、“奴はあなたじゃないと走りたくないらしいよ”と言っていました(笑)。
ある日、調教師がイタリアのG3挑戦を決めたんですが、それはチーム全員にとって大きな挑戦でした。全然人気が無かったですが、2着と頑張りました。素晴らしい瞬間でした!
数週間後、調教師は再びイタリアのG3に出走させることを決めましたが、今度は人気になりそうでした。そこに、フランキー・デットーリ騎手の代理人が声をかけてきたんです。小規模の馬主にとって、世界最高の騎手が自分の馬に乗ってくれることがどれだけ大きな喜びか想像できるでしょうか? これを聞いた私は内心、もう終わったと思いました。でもオーナーは、誰もが驚いたことに、“ミカエル以外の誰も、私の馬には乗って欲しくない。彼女はこの馬のことを一番知っているし、このレースを勝ってくれるだろう”と調教師に言ったんです。私にもできることを証明するチャンスを与えてくれたんです!」
ミシェル騎手は、このG3カルロダレッシオ賞の前日の、チームでの食事会の様子を振り返ってくれた。それは和やかで楽しいひと時だったそうだ。一人の男性の発言までは…。