私と同世代で、子どものころ麻疹(はしか)にかかったかどうか、かかっていないとしたらワクチンを打ったかどうかを覚えている人はどのくらいいるのだろう。
このところ麻疹が話題になっているので何人かに聞いてみたら、ほとんどの人がちゃんと覚えていて、驚いた。
私はまったく覚えていない。
アメリカのバイデン大統領の記憶力に問題があるというニュースが思い出された。原文では「プア・メモリー」。それは嫌なので、忘却の彼方、ということにしておこう。
実家を処分するとき出てきた母子手帳を見ても、麻疹にかかったかどうかなど、もちろん書かれていない。ワクチンを接種したという記録もない。
ということは、私は抗体を持っていない可能性があるわけだ。が、両親がいなくなった今、もはや、確かめようがない。
ならば抗体検査をしてもらおうと、行きつけのクリニックに電話をした。すると、去年そこで打った風疹のワクチンが、麻疹との混合ワクチンなのだという。
私は二重で忘れていたらしい。プア・メモリーである。
麻疹ほど昔のことではなくても、重要なことなのに、どうしても思い出せないことがいくつかある。
そのひとつが、書くのは本当に恥ずかしいのだが、初めて競馬場に行ったのはいつなのか、ということである。
初めて馬券を買ったのが1987年の天皇賞(秋)というのは間違いない。その馬柱が載った競馬新聞を、フジテレビの報道フロアで放送作家のウメさんこと梅沢浩一さんに見せてもらったことも覚えている。
だが、その馬券を、どこかのウインズで買ったのか、それとも天皇賞が行われた東京競馬場で買ったのか、思い出せないのだ。
レース当日の雰囲気などに関して、あまり強烈な印象がないということは、当時住んでいた向島に近い、浅草のウインズで買ったのかもしれない。
間違いなく競馬場に行き、勝ち馬の迫力に圧倒されたことを覚えているのは、その年の11月15日に行われた富士Sだ。当時は芝1800メートルの国際招待のオープン特別だった。1987年に勝ったのは「鉄の女」トリプティク。アメリカ産のフランス調教馬で、5馬身差の圧勝だった。「世界」の壁の高さに府中で圧倒された経験は忘れられない。
書いているうちに、それが私の競馬場初体験だったような気がしてきた。
しかし、私は、「本はいいものから読め、と言われているように、競馬を初めて現地で見るならGIにすべきだ」と、何人、何十人にも繰り返し言ってきた。
30年以上もそう言いつづけてきた本人が初めて現地観戦したのはオープン特別だった──というのは都合が悪いので、自己保存本能のようなものが働き、記憶を操作していたのかもしれない。
言い訳をすると、トリプティクは2歳時にG1をひとつ勝ち、3歳時の5月と6月、英・愛のクラシックを5連戦し、うち愛2000ギニーを優勝。私が見た富士Sまでに英チャンピオンS連覇を含め3カ国のG1をさらに6勝し、旧7歳になった翌年、コロネーションCでG1・9勝目を挙げた、世界の競馬史に残る女傑だった。その圧勝劇は、初観戦にふさわしい「名作」だったと言えるように思う。
さて、コビさんこと小桧山悟元調教師が引退したことによる「コビさんロス」に襲われている関係者やファンは多いようで、SNSに思い出の写真を今も何枚もアップするなどしている人が複数いる。
コビさんにつづくように、小桧山厩舎の主戦騎手だった武士沢友治さんが3月10日付で引退し、競馬学校の教官になることが発表され、二重の寂しさになったことも影響しているようだ。
そのコビさんから、『小檜山厩舎卒業アルバム』が送られてきた。ゴリラの写真のポストカードにメッセージが記され、「幸せな調教師人生でした。最後の10年はほんとうに楽しく、他の人に申し訳ないぐらいでした」とある。
細かいことだが、コビさんの名字は「小檜山」が正しいのだが、JRAでは「小桧山」となっていた。競馬関連の媒体に記すときは、過去の戦績などを振り返ることもあるだろうから、主催者の表記に従い、これからも「小桧山」と記すことになると思う。
実は、コビさんと初めて会ったときのことも、コビさんの家に居候していたエッセイストのかなざわいっせいさんに初めて会ったときのことも、それぞれとてもよく覚えているのだが、どっちが先だったのかは、どうしても思い出せない。
繰り返しになるが、プア・メモリーである。記憶にないことで話をつなげてしまうあたり、案外、私は政治家に向いているのかもしれない。