今年3月30日のドバイワールドカップデーに行われたUAEダービーを、日本のフォーエバーヤングが5戦5勝で制した。レース後、管理する矢作芳人調教師が「今朝、私の師匠でもある父が亡くなりました。勝って、いい報告ができてよかったです」とコメントしたことを覚えている方は多いだろう。
矢作調教師の父である矢作和人氏は、騎手として活躍したのち、調教師として大井競馬場に厩舎を開業した。2000年から全国公営競馬調教師会連合会会長を9年ほどつとめ、2006年に文部科学大臣スポーツ功労者顕彰、2007年にはNARグランプリ特別賞を受賞。通算7075戦751勝の成績をおさめ、2009年5月限りで調教師を引退した。
享年90歳。昨秋94歳で世を去った私の岳父同様大往生であったが、家族はそれだけ長く一緒にいたということだから、悲しみと寂しさも大きくなる。
今週の月曜日、4月8日に都内の斎場で行われた告別式に参列した。並べ切れないほど多くの供花を見ただけで、いかに大井競馬をはじめとする地方競馬、ひいては競馬界全体の発展に貢献した人なのかがよくわかった。
告別式が始まる前、入口近くにいた矢作師にお悔やみの言葉を述べると、師は、ディスプレイされていた和人氏の写真のひとつを指し示した。矢作師の管理馬の口取り写真で、師の隣に和人氏も立っている。
「どっちが調教師かわからないよね」
いつもの口調で矢作師が笑った。それは和人氏の立ち位置によるだけではなく、誇らしげにしているところ、そして嬉しそうにしているところを含めての「どっちが調教師かわからない」という笑みだった。矢作師の生き方を決める、大きな存在だったことが、この短いやり取りからも伝わってきた。
千代田牧場代表の飯田正剛氏が弔辞を述べた。飯田氏の隣の席には、生産者で北海道議会議員の藤沢澄雄氏がいた。吉田勝己氏の姿もあった。矢作師の弟子の坂井瑠星騎手、古川奈穂騎手のほか、内田博幸騎手、青木孝文調教師らも参列していた。
最後に、矢作師が、全休日の当番となった厩務員にいつも和人氏自ら弁当を差し入れていたことなど、思い出を語った。
出棺を見送ってから、大井の藤田輝信調教師と少し話すことができた。
「和人先生とは、どんなつながりがあったのですか」
私が訊くと、藤田師はこう答えた。
「先生は調教師引退後に馬主になられて、僕の厩舎の開業第1号を預けてくださったんです。レーヴドアローという馬です。レーヴは『夢』で、アローは『矢作』の『矢』です」
藤田師が開業したのは今から14年前、2010年のことである。34歳だった。
和人氏は、開業したばかりの若手調教師と「夢」を共有しようとしたのだ。
そういう粋なところや、男気のあるところが、矢作師に受け継がれたのである。
矢作師は、シンエンペラー、ミスタージーティー、そしてホウオウプロサンゲの「3本の矢」で今週末の皐月賞に臨む。
今年の皐月賞は、ちょっと記憶にないくらいの大混戦で、どの馬にも勝つチャンスがある。同じように大混戦と言われた1997年の春は、終わってみれば、サニーブライアンが二冠を制していた。今年はどんな「終わってみれば」になるのか。それがわかれば苦労はないのだが、混戦を楽しみたいと思う。
昨秋の追突事故で傷めた首の状態がだいぶよくなってきた。その代わり、というわけではないだろうが、先週、原稿を書いているとき、急に腰が痛くなった。腰の痛みがひどいときは首が楽になり、首の痛みがぶり返してくると腰の痛みがいくらかやわらぐ。どのみちしばらく痛い思いから解放されることはないのだろうか。
仕事場から見える川沿いのソメイヨシノが半分ほど散ってしまった。あの並木が葉桜になるころには、クラシックの勢力図も明らかになっているだろうか。
皐月賞の日は好天であってほしい。